1535年島津貴久の次男として生まれた島津義弘は19歳で初陣を迎え、その後は家督を継いだ兄義久を補佐し薩摩島津氏の九州制圧に大きく貢献します。
豊臣軍の九州平定軍に島津氏が敗退した後は豊臣傘下の猛将として朝鮮出兵などで活躍。
慶長の役で朝鮮へ渡った際には7千の兵で明と朝鮮の連合軍に3万7千もの被害を与え、打ち破っています。
そのあまりの強さから島津軍は敵に『鬼石曼子(おにしまづ)』と呼ばれ、恐れられました。
関ヶ原の合戦では西軍に従軍。石田三成らとの作戦の食い違いから、兵を動かさないまま敵中に取り残された義弘は捨て奸(すてがまり)という捨て身の戦法で敵中突破を試み、大ダメージを受けながらも何とか九州へ帰陣。
そのとき義弘を最後まで執拗に追撃したのが徳川四天王の一人、井伊直政でした。
しかし徳川勝利後、義弘はその井伊直政に和平交渉の仲介を依頼します。
武をもってお互いを認め合っていた二人は厚い信頼関係を結び、直政も島津氏の為に奔走。交渉は見事に成功し、島津氏は無事存続することとなったのです。
デザイン&イラストレーションはサムライズムアート新デザイナーのmakoto氏。
フロントセンターには「鬼石曼子」と辞世の句、背中には島津家の家紋「丸に十の字」の原型十の字と『義弘』の『義』のタイポグラフィーの上に迫力のイラストを配置しました。
中国にまでその名が響き渡った武勇の将、島津義弘の気迫と生き様を表現した一枚です。
デザイン:Makoto、デザイン監修:立澤竜也
クリエイターMakotoさんのコメント
作風がイラスト又は、マンガ絵なので、今作は多少の苦労を伴いつつも、非常に楽しくまた、勉強になった作品であります。今回が初めてということもあり、シンプルで且つダイナミックな直球のデザインになりましたが、自分の背負いたい島津義弘像が描けたかなと思います。