堺の豪商・小西隆佐の次男として生まれた小西行長は、はじめ備前の宇喜多直家に仕えていました。直家の死後、行長の才をいち早く見抜いた秀吉に仕えると、当時の武将にはなかった優れた経済感覚や卓越した外交術によって頭角を現していきます。
商人出身で外交を得意とすることなどから、行長は武よりも文の人だと見られがちですが、豊臣政権内では水軍を率いて紀州の雑賀征伐、四国征伐に参陣しています。九州征伐では兵站や物資の海上輸送を任され、また室津・小豆島を与えられて塩飽より堺までの船舶を管理していた行長のことを、宣教師ルイス・フロイスは「海の司令官」と称していました。
また、行長はキリスト教の洗礼を受けたキリシタンという一面も持ち、秀吉の「伴天連追放令」によって高山右近が領地を召し上げられたときは、危険を犯して自らの領地に右近や宣教師たちを匿ったといいます。
天下分け目の関ヶ原の戦いでは石田三成方の西軍に組して戦うものの、西軍の中でまともに戦ったのは石田三成、大谷吉継、宇喜多秀家、そして行長の隊くらいのもので、小早川秀秋の裏切りにより西軍は敗走。伊吹山に逃れた行長は自害を禁じているキリシタンの教義に従って、自害するより捕らえられて斬首される道を選びます。
死に臨んだときも行長は堂々と落ち着き払っていて、ポルトガル王妃から贈られたというキリストと聖母の絵に祈りを捧げてその生涯を閉じました。享年43歳。
小西行長という武将を示すキーワードとして「キリシタン大名」と「海将」の二つがありルイス・フロイスに「海の司令官」と称された海将としての行長を全面に押し出したデザインとなっています。
フロントには迫力満点の帆船(ガレオン船)を配し、その帆には行長の家紋と伝えられる中結祇園守紋、帆船や波間を照らす真っ赤な太陽は旗印の赤丸を使用しています。
帆船は海将としての行長を表すと同時に、大海原を航海するために風という大自然に翻弄される帆船を、太閤秀吉という巨大な存在にその一生を翻弄された行長の人生に重ね合わせています。
また帆船が浮かんでいる海は、生家跡がある大阪府堺市の菅原神社に行長が朝鮮から持ち帰って奉納した笠松の幹の模様をそのまま取り込み、樹齢400年を越えた老樹のもたらす曲線の美しさを、波というまったく違ったものとして生まれ変わらせています。
帆船のバックに記された文字はルイス・フロイスによるイエズス会報告書のイタリア語版で、行長が明勅使を日本に連れて来たときのこと、そしてそのことを大変喜んだ太閤秀吉は、行長に対して多くの好意と親愛の情を示し、著名な大名たちの前で行長を称賛したと記されています。書き込みの多いフロントに対しバックはシンプルに、行長の署名・花押・印章を組み合わせ、その下には行長の洗礼名「DON AGOSTINHO」を記しています。
デザイン:立澤竜也