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第十六席 非業の死の原因は愛妾の祟り?「佐々成政と黒百合伝説」

佐々成政と言えば、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いと二度も秀吉と対決し、一度は所領を没収されたものの後に肥後を与えられて大名に復帰。しかしそれも束の間、肥後の国人衆に一揆を起こされ、その責任を取る形で切腹させられてしまったという悲運の武将です。享年53歳。


切腹の原因となったのは、秀吉からの「肥後の国人は独立志向が高いので三年は検地を行わないように」という指示を無視して、入国後すぐに検地を行ったことに対する肥後国人衆の一揆と言われていました。
しかし『絵本太閤記』によれば、成政が破滅したのは「ある女性の祟り」によるものだと語られているのです。


その女性とは、成政が溺愛していた愛妾・小百合。

小百合は五福村の豪農・奥野与左衛門の娘で、ある日領内を見回っていた成政が一目ぼれし、城に連れ帰って側室にした女性でした。
成政には他にも側室が何人かいましたが、寵愛を受けるのは小百合ばかり。天正12年(1584年)には小百合が懐妊したことによって、しだいに他の側室たちは小百合に対して嫉妬と恨みを募らせていきます。

しかし成政は、愛妾の懐妊に喜んでばかりはいられません。
何故なら当時の成政は、秀吉と織田信雄・徳川家康の間に起こった小牧・長久手の戦いで家康側を指示し、秀吉側の前田利家、上杉景勝と交戦中でした。
ところが秀吉が信雄と講和を結んだことにより、信雄から援軍を頼まれていた家康もそれ以上は戦を続けられない状態になったため、秀吉・家康の間でも講和が結ばれたのです。

成政としては、頼みの綱の家康があっさりと引いてしまったのだからたまりません。
なんとかもう一度再挙してもらうため家康のいる浜松城へ向かおうとしたのですが、西は加賀の前田が、そして東の越後は上杉に押さえられていて通ることができない状態です。
加賀も越後も通らず隠密裏に浜松へ行くためには、南下して真冬の北アルプスを越えるしかありません。佐々成政を語る上で外せない「さらさら越え」ですね。
成政が「さらさら越え」を決行したのは天正12年(1584年)の暮れ。まさに北アルプス一面が雪に覆われる極寒期でした。
その時期の北アルプスは積雪が20メートルほどになり、そんな積もり積もった雪が雪崩れを起こすことも多く、しかも気温は零下20~30度という厳しい時期です。
現代の登山装備でも真冬の北アルプスに挑むのは難関中の難関。当時の装備では自殺行為に等しいものでした。
しかし成政は60人ほどの家臣を連れ、浜松を目指して北アルプスへ向かう決意をします。

事件の始まりは、このときに起こりました。

成政が連れて行こうとした家臣の中に、竹沢熊四郎(岡島金一郎という説もあります)という若者がいたのですが、熊四郎は出発直前に病気になってしまったのです。
健康な人間でも命を落とす確立が高い危険な行軍に、病気の熊四郎を連れていくわけにはいきません。成政は熊四郎に富山城の留守を任せると、他の家臣たちと出発しました。

この熊四郎の留守番を利用したのが、常々小百合を疎ましく思っていた側室たち。
成政がいないことをいいことに、「小百合は熊四郎と密通していて、熊四郎が仮病を使ってお共を断ったのもそのため。小百合のお腹の中にいる子どもは成政様の子ではなく熊四郎の子」と、ないことないこと言いふらしたのです。
女同士のガチンコバトル。まさに大奥の世界ですね。女の嫉妬は怖い。

一方の成政はなんとか無事に北アルプスを越えて浜松に辿り着きましたが、決死の訴えにも関わらず家康は腰を上げてはくれませんでした。
絶望感に打ちひしがれながら、帰りも再び北アルプスを通って富山城へと戻ってきたのです。出発時には60人ほどいた家臣たちは、多くが凍死などしたために6人にまで減っていました。


そんなとき成政が耳にした噂が「小百合と竹沢熊四郎の不義密通」の話。
成政も最初は愛する小百合と信頼する熊四郎に限ってそんなことがあるはずがない、と噂を信じようとはしませんでした。
しかし、ある時、成政は小百合の部屋の前で匂い袋を拾ってしまいます。
「これは一体誰のものだ?」と不思議に思った成政が調べさせると、なんとその匂い袋は小百合とあらぬ噂のあった熊四郎のものだということが判明。
小百合と熊四郎の無実を信じていた成政も、さすがに物的証拠を見つけてしまい大激怒しました。
信じて同盟を組んでいた家康に突き放されたあとだけに、小百合と熊四郎に裏切られたことが余計にショックだったんじゃないでしょうか。
けれど、これも実は小百合を陥れるために側室たちが仕組んだ陰謀だと言われています。怖い。女の嫉妬と恨みは本当に怖い。


とにかく激怒した成政は、まず熊四郎を呼び出して惨殺。続いて小百合の黒髪をつかんで神通川の川辺に引きずり出すと、榎に吊るして鮟鱇斬りにしてしまったのです。
鮟鱇斬り。って、読めねーよ!と思ったそこのあなた。私も読めませんでした。画数多すぎ。
「鮟鱇斬り」は「あんこうぎり」と読みます。深海魚のあんこうですね。鮟鱇は肋骨がないためまな板の上では切りにくいので、吊るしたままの状態でさばきます。つまり小百合も鮟鱇のように、榎に逆さ吊りにされたまま斬り殺されてしまったのでした。
しかも殺されたのは熊四郎、小百合だけでなく、五福村にいた小百合の一族18人も全員首をはねられ、獄門に磔にされました。
事実を知らず、成政も騙されたとはいえ、あんまりにも酷い仕打ちです。


殺されるときの小百合は美しかった顔は悪相に変わり、歯を噛み砕くほどに食いしばり、血の涙を流しながら「おのれ成政!!私の身はここに果てようとも怨恨は悪鬼となり、数年で汝が子孫を殺し尽くし、佐々家を滅ぼしてやる!!」と罵り叫びました。
その光景は見ていた者は目を覆い、聞いていた者は恐ろしさのあまり毛髪が動くほどであったとか。

今でも神通川磯部の堤あたりには、桜並木にまじって1本の榎が残されています。
と言っても小百合が吊るされた榎は戦争時の大空襲が元で枯死してしまい、そのときに地面に落ちた種が育った二代目の榎だそうです。
付近には昔から、雨風の激しい夜は女の生首を下げた悪鬼が現れるとか、この榎の下で「小百合、小百合…」と七回唱えると小百合の亡霊が現れるとか、磯辺の堤に現れる火の玉を「小百合のぶらり火」と呼ぶなど、無念の死を遂げた小百合にまつわる話が数多く残されています。


さて、話は成政のことに戻ります。
家康の助力を得ることができなかった成政は、観念して秀吉に降りました。
このとき一度ならず二度までも敵対した成政を秀吉は殺そうとしましたが、その処罰は北政所と呼ばれていた秀吉の正室・ねねが成政をかばったことによって撤回され、成政は命を奪われず、越中の所領を没収されると以後は秀吉の御伽衆となったのです。
御伽衆とは秀吉に武辺話をしたり相談に乗ったりする話相手のこと。没落した有力大名出身や旧守護家出身者などが多く、足利義昭、織田有楽斎、織田信雄、山名豊国などがいました。
しかし命は助かったとはいえ、槍一本で信長に認められて、信長の親衛隊でもある黒母衣衆筆頭まで勤めた成政にとって、かつては「猿」と蔑んでいた秀吉の話し相手をさせられることはさぞや屈辱だったことでしょう。


そんな成政の窮状に再度救いの手を差し伸べてくれたのが、やはり北政所・ねね。


信長家臣時代から武名を馳せていた成政を御伽衆のままでいさせるのはもったいない、と言うねねの言葉のおかげで、成政は九州平定後の肥後一国を任されるという大抜擢を受けることができたのです。
命の恩人であり、その上、大名に復帰することができたのもねねの推薦のおかげ。成政はねねに何重もの恩を感じて、なにかお礼ができないものかと考えました。
そこで「茶室に飾る花を贈ろう」と思いついた成政は、せっかく贈るのであればそんじょそこらのありふれた花ではなく黒百合という珍しい花を贈ることにしたのです。
黒百合は白山(石川県)の山奥にのみ咲いていた珍しい花で、成政は旧領越中の地侍に頼んで黒百合を一輪摘ませると、青竹の筒に万年雪をつめて早飛脚で大坂へと運ばせました。


思いがけない成政からの贈り物に、ねねも大喜び。
そしてせっかくの珍しい花なのだからと、千利休の娘・綾に活けさせ、早速茶会を開いて黒百合を披露することにしたのです。

茶会当日、集まった人々は見たこともない可憐な黒い百合に驚き「これはなんと珍しい」「なんと美しい花でしょう」と口々に褒めそやしました。
周囲の反応、特に秀吉の大のお気に入りであり、お互いに激しい対抗意識を燃やしていた側室の淀に珍しい花を見せ付けることができて、ねねも上機嫌。

しかし、淀はすでにねねが成政から珍しい黒百合を贈られたことを漏れ聞いていました。
そしてその場ではねねの黒百合を褒めながら、実は密かに使者を白山に走らせ、黒百合をどっさりと摘んでこさせていたのです。

そして、ねねの茶会が終わって三日後。
花摘み供養の会のとき、淀はこれみよがしに黒百合を竹筒に入れると、当時は卑しい花と言われていたツツジなどに混ぜて、ねねに見せ付けるように活け捨てにしたのです。
ねねが1本の黒百合をあれだけ自慢げに見せたのに対して、ねねの活けた百合よりも生き生きと咲いている黒百合が、しかも大量に活け捨てられている光景にねねは愕然としました。
ねねが淀に黒百合を見せてからわずかに三日。たった三日で百里も遠い白山にしか咲かない黒百合を淀が手に入れられるはずがない、とねねは考えます。
そして、きっとこれは成政がねねに恥をかかせるため、ありふれた花を世にも珍しい花だと偽って贈ってきたのだと思い込んだのでした。女同士の争いが、成政の純粋な恩返しの気持ちを歪めてしまったんですね。
小百合と側室たちといい、ねねと淀といい、女同士の争いって本当に怖いですね。

そして成政が肥後入国後に、国人衆の一揆が勃発。
一揆の責任は成政にあるとして、天正16年(1588)4月14日に秀吉に切腹を命じられた成政は、尼崎にある法園寺でその生涯を閉じました。
このとき、以前はあれほどに成政をかばい、秀吉に成政の助命嘆願をしてくれたねねは、黒百合の一件を恨みに思って一言も取り成してはくれなかったそうです。


黒百合によって滅亡へと追いやられた成政のことを『絵本太閤記』は、「これも先に成政が手に殺された早百合といへる女の怨念にて、今度黒百合の事より滅亡しけるやと、そぞろに怪しむ者も多かりけりとや」と結んでいます。
小百合の怨念が黒百合となり、成政を破滅へと追い込んだというのですね。

しかし現在では研究が進み、この成政に関する黒百合伝説は事実ではなかったことがわかっています。
成政は越中では堤を作るなど、領民に非常に評判のいい領主でした。そのため成政のあとに越中を治めた加賀の前田家が、評判の良い前領主・成政を貶めるためにこのような伝説が作られたと言われています。


自領を上手く治めるために、前領主を必要以上に貶めるということはよくありました。
特に前領主が非業の死を遂げていたりする場合、誰にはばかることなく悪評を言い立てたんですね。
成政以外の例で言うと、関ヶ原の戦い後に小西行長の治めていた肥後南半国を手に入れた加藤清正は、領民に行長のことを「前のお殿様」とか「小西様」と呼ぶことを禁じ、「摂津守」と呼び捨てにするようおふれを出しました。
清正のあとに肥後を治めた細川も加藤家と親しかったため、長い年月をかけて行長に対する悪評は続き、熊本では「キリシタンである行長が自領の寺や神社を破却した」という伝説がまことしやかに伝えられてきました。
しかし今になって改めて調べてみると、行長が燃やしたり壊したと伝えられる寺や神社の多くは、行長の肥後入国前、もしくは行長の死後に破却されていることがわかったのです。


死人に口なしとはいえ、歴史の敗者にはこういった身に覚えのない悪行・悪評が押し付けられるのは悲しいものですね。

文:ひなた

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