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TOP > COLUMN > 第十五席 戦国一のおしどり夫婦・明智光秀と煕子
第十五席 松尾芭蕉も感激!?「戦国一のおしどり夫婦・明智光秀と煕子」

戦国時代を代表するおしどり夫婦といえば、どの夫婦を想像しますか?

大河ドラマにもなった山内一豊と千代、
農民から天下人になるまでを二人三脚で駆け上がった豊臣秀吉とねね、
政略的な結婚だったにも関わらず夫婦仲が良かった浅井長政とお市の方、等など。
仲が良かったと言われる夫婦はたくさんいますが、今回のコラムで紹介する夫婦は、江戸時代にかの松尾芭蕉も感動したという戦国一のおしどり夫婦。明智光秀とその妻・煕子です。

明智夫妻には数々の美談が残されていますが、中でも特に有名なのは光秀が煕子を娶るときの話ではないでしょうか。

それはこんなお話でした。

光秀の妻となる煕子は美濃の妻木範煕の娘で、幼い頃から光秀に嫁ぐ約束をしていましたが、なんと婚礼直前に疱瘡にかかってしまったのです。
疱瘡といえば独眼竜の異名を取った伊達政宗も幼いころにかかり、右目を失明しています。
回復後も容貌が一変してしまったため、これ以降、母の義姫に醜くなった容姿を嫌われたという話も残っているほど、当時の疱瘡は原因不明で死亡率の高い病気。運良く助かっても、政宗のように容姿が変わってしまうこともありました。 そして疱瘡にかかった煕子も一命は取りとめたものの、近隣に知られた美貌に一生消えないアバタが残ってしまったのです。
しかし光秀との婚礼はもう間近。事実を話して光秀との縁談が破談になることを恐れた妻木範煕は、煕子の代わりに妹を光秀の元へ嫁がせることにしたのです。
親である範煕にとっても辛い決断だったでしょうが、当の本人である煕子はもっと辛いはず。しかし聡明な女性であった煕子は嘆きもせずにこう言いました。

「このような容姿になってしまった以上、十兵衛様(光秀)の元へ嫁ぐことはできませんし、もしもこのような容姿の私でも良いと言ってくださる殿方が現れたとしても十兵衛様以外の元へ嫁ぐつもりはありません。幸い妹はどこへ嫁がせても恥ずかしくない利発な女性なので、どうぞ妹を十兵衛様に嫁がせてください。それに私は以前から出家したいと思っていました。これは神仏にかけて偽りではありません」

幼い頃からの許婚だった光秀との婚約が直前になって破棄になり、しかも代わりに嫁ぐのが実の妹。
そんな辛い境遇であるにも関わらず、煕子は両親や妹が気に病まないよう、何事もなかったかのようにそう言ったのです。
煕子の言葉に、両親は感激して咽び泣きました。しかし一旦口にしてしまった以上、もう後戻りはできません。
煕子の代わりに嫁ぐことになった妹には詳しい事情は話さず、光秀の元へ嫁ぐよう言い聞かせたのです。
最初は妹も「姉上が嫁ぎ遅れたのならともかく、そうでもないのに妹の私が姉上より先に嫁ぐなんておかしい」と納得しようとはしませんでしたが、両親に説得され、そして姉・煕子が「前から出家したいと思っていた」のだと言われると、ようやく納得して、光秀の元へ嫁ぐことを承知しました。

妹は吉日の日を選び、妻木家の身代には不相応なほどに美しく飾られて、光秀の待つ亀山へと嫁ぎます。
光秀はまさか嫁いできた新妻が妹だとは夢にも思わず、幼いころに会ったことのある姉の方だと思い込み、三々九度の盃を交わしました。

しかしその夜のことです。
結婚のときは花嫁をまじまじと見る余裕はありませんでしたが、こうして二人きりになって間近で見てみると、光秀はどうにも違和感を覚えてしまうのです。
よくよく妻の横顔を見てみると、その違和感がなんであったのかに気付きました。ホクロです。

(子どもの頃に会ったとき、確か彼女の横顔には気をつけて見ていないとわからないほどのホクロがあったはずだ。だが今の彼女にはホクロがない…成長するにつれてホクロが恥ずかしくなって取ってしまったのだろうか?)

そんなことを考えながら妻の横顔を眺めていると、光秀の視線に気付いた妻…煕子の妹は言いました。

「ここにホクロがありますのは私の姉上でございます。姉上は疱瘡にかかってしまい、あれほど美しかった容貌が一変してしまいました。同じ女の身として、姉上がおいたわしくてなりません。その姉上を差し置いて、妹の私が縁組をするなど順番が違うとお断りしたのですが、両親には逆らえずこちらに嫁いできたものの、姉上のことが気がかりでした。しかし、今こうしていろいろと考えてみますと、貴方様と結婚の約束をしたのは私ではなく姉上だったに違いありません。そうとわかればどうしても道理の立ちようがありませんので、かくなる上は、私は今日を持ちまして出家いたします」

そう言うと、守刀を取り出して髪を切り落とそうとしたのです。
慌ててこれを止めた光秀は「貴方が髪を切って出家したところで、世間が納得する話ではありません。他人には知られないように事を解決する方法がありますので、次に実家に帰るときまでお待ちください」と言い、その後は顔を合わさずに離れて過ごしました。

そして妹を連れて里帰りをした光秀はこのやりとりを詳細に記した手紙を書き、その最後に、

「私が貰う約束をしていたのは姉の煕子殿の方です。難病にかかってしまうのは仕方のないことであり、例えそれが原因で昔の容姿を損なってしまったとしても、煕子殿を私の元へ送ってください。私の一命にかけましても、生涯夫婦として添い遂げたい思っています。」

と書き記し、また姉の気持ちを考えて出家しようとまで言い出した妹の心がけも「立派なものだ」と褒め称えました。
それを読んだ両親も感激して、光秀の望み通り、今度こそ煕子を嫁がせたのでした。

こうして晴れて夫婦となった光秀と煕子でしたが、光秀と煕子にまつわる美談はもうひとつあります。
この頃の光秀は諸国を放浪している浪人の身でしたが、永禄5年に越前国・称念寺を訪れたとき、称念寺の住職と親しかったことから寺の門前に寺子屋を作って、そこで煕子と暮らすことにしたのです。
決して裕福な暮らしではありませんでしたが、夫婦で幸せな日々を過ごしていたある日、家に帰ってきた光秀がどうしてだか暗い顔をしていました。
夫がなにか思いつめているのではないかと心配した煕子が問いただすと、光秀は「実は次の汁講で、私の番が回ってきてしまったのだ…」と悩みを打ち明けました。
汁講というのは若い武士たちが集まり、当番になった者が自宅に招いて食事を振る舞い、兵法や合戦の話をする会のことです。
しかし明智家は自分たちの明日の食費も事欠くくらいの貧乏所帯。とてもでありませんが、何人もの客をもてなす料理を用意するお金なんかあるはずがありません。光秀が暗い顔をしていたのは、そのためだったのでした。
けれど煕子は光秀の話を聞くとにっこりと頷き「そういうことでしたら私がなんとかしましょう」と言い、そして汁講当日はその言葉通り、仲間の誰よりも立派な食事を用意したのです。
煕子のおかげで男としての面目が立った光秀は喜びましたが、不思議なのがいったいどこにあれほどの料理を用意するお金があったのか、と言うこと。
光秀がそのことを訊ねてみると、妻は笑って「私の髪を売りました」と言って頭のかぶり物を取りました。そこには美しかった煕子の黒髪が根元からばっさりと切られてはなくなっていたのです。
女性にとって髪は命。当時、女性が髪を切るのは尼になって出家するときくらいのものでした。
大事な髪を売ってまで自分に尽くしてくれる煕子に光秀は感激し、生涯側室は持たないと誓ったといいます。

「月さびよ  明智が妻の  はなしせむ」

これは江戸時代に奥の細道を終えた松尾芭蕉が伊勢に入って門弟の山田又玄宅に宿泊したとき、かいがいしく世話をしてくれた又玄の妻に贈った歌です。
松尾芭蕉が生きた時代でも煕子の逸話は有名で、そんな夫に尽くす煕子の献身さに芭蕉も深い感銘を受けたんですね。

文:ひなた

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