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第十四席 相模の獅子の意外な過去!「鉄砲にビビって自殺未遂!?」

戦国の世を駆け抜けた一騎当千の武将、名立たる名君たちも、昔から鬼のように強かったり、徳高かったわけではありません。
革新的な政策を次々と打ち出した織田信長も若いころは「うつけ者」と呼ばれていましたし、四国統一を成し遂げ「土佐の出来人」と呼ばれた長曾我部元親も幼少のころは大人しい性格だったことから「姫和子」と呼ばれていた時期もあったのです。

そして今回のコラムの主人公であり、後年は「相模の獅子」と呼ばれるほどの武将に成長する北条氏康も、若いころは意外に臆病なところがあったという逸話が残されています。

それは1527年(大永7年)頃に、まだ12歳だった北条氏康が家臣たちの鉄砲訓練を見学をしたときのお話です。

ここで「1527年に鉄砲?」と疑問に思った方もいるかもしれません。
長崎の種子島に鉄砲が伝えられたのは、異説があるものの大体1543年頃と言われています。この話の舞台である1527年の16年後ですね。
そんな時代に鉄砲があるわけない!と思われるかもしれませんが、この話に出てくる「鉄砲」とは「種子島銃」ではなく、種子島以前に中国より伝わった中国式の火器のことだそうです。
相模国に鉄砲が普及したと伝えられる話では『鉄砲記』に1544年(天正13年)に貿易船が伊豆に漂着したのをきっかけに普及したという説と、鉄砲鍛冶で有名な国友村の由緒や、『北条五代記』に見られる記述では1510年(永世7年)に小田原の山伏が修行の途中に堺で鉄砲を入手し、それを北条氏に献上したという説があります。
後者の説が正しければ、種子島銃が日本に伝来する以前の1527年に中国式火器が伝わっていることも有り得るでしょう。
もっとも中国式の火器は使い勝手が悪かったので、ほとんど実践で使われることはなかったそうですけど。
そんなわけでこの話で出てくる鉄砲は中国式火器ですけど、ややこしいのでこれ以降は「鉄砲」と表記させていただきますね。

話は氏康が家臣の鉄砲訓練を見学していたところに戻ります。
今まで見たことのない「鉄砲」という新しい武器に、好奇心旺盛な年頃の氏康は興味津々。
一体どんな武器なのか、ドキドキしながらその訓練を見守ります。

が、しかし。


パアアアアアアアァァァァァン!!!!!!!!!!!!!!!!


という轟音とともに発砲された鉄砲音は、鼓膜が破れそうになるくらいにすさまじい大音量。
初めてそれを耳にした氏康は、驚きのあまりに腰を抜かして顔面蒼白。思わずガクガクブルブルと震え出してしまったのです。

しかも話はそれだけでは終わりません。なんと氏康の様子を見ていた家臣が「ぷっ、氏康様ビビってやんの」という顔で笑ってしまったんですね。恥ずかしい。これはかーなーりー恥ずかしいですよ。相模の獅子一生の不覚です。

しかし鉄砲にビビって家臣に笑われただけでは本当に単なる恥ずかしい話で終わってしまいますが、後年相模の獅子と呼ばれるほどの智勇兼備の名将に成長する氏康はこれだけでは終わりません。
氏康は突然脇差を抜いたかと思うと、「このような醜態を晒したからには、武士の面目が立たぬ!!かくなる上は腹を切るしかない!!」と言い出したのです。これには回りの家臣一同びっくり。
家臣たちは「あなたは自分が臆病なことを情けないと思って死のうとしているのでしょうがとんでもないです!!勇気がある人ほどよく驚くものですよ!?優れた馬もカンが強いためによく驚くでしょう?」と、必死になって説得します。

結局、氏康はその説得を受け入れて切腹は思いとどまりましたが、家臣に笑われて恥をかいたからって切腹しようとするとは12歳でもさすがは戦国武将です。

この経験は少年氏康に大きな影響を与えたのか、それから4年後の16歳で初陣を果たして以来、氏康は生涯36回の合戦に出ましたが、一度も敵に背を見せることはなかったといいます。
そのため身体に七箇所、顔に二箇所の刀傷を負っていて、向こう傷のことを「氏康傷」と呼ぶようになったとか。
もしかしたら氏康がこんなにも敵を恐れない、勇気ある武将にと成長したのは、少年時代に臆病だったところを笑われた経験から、もう二度とあんな醜態は晒すまいという決意の表れだったのかもしれませんね。

文:ひなた

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