このように生存説がある人物は最期が悲劇的で凄絶な死を遂げた武将が多いのですが、しかし生存説があるのは武将だけではありません。
戦国の世に生きた女性も同じように悲劇的な最期を遂げ、中には生存説のある人もいるのです。
それを語るには天正11年(1583年)に越前・北ノ庄城が落城するときにまで話はさかのぼります。
北ノ庄城落城の様子は、宣教師として有名なルイス・フロイスが1584年1月20日に長崎からヴァリニャーノ宛に送った書簡に詳細に記されていますが、その内容を要約するとこんな感じ。
「羽柴の全軍に囲まれた柴田は『私がここまで逃れてきたのは武運によるもので臆病だからではない。もし私の首が敵に斬られ、私やお前たちの妻子親戚が侮辱を受けるなら、我が柴田の名と家を永久に汚すことになる。そのため私はただちに切腹し、この身は敵に発見されぬよう焼かせよう。お前たちが敵の許しを得られるすべがあるのならば、その命を永らえさせることを私は喜ぶであろう』と語ったが、一同、武士だけではなくその妻子までもが柴田とともに死ぬことを願った。これに対し柴田は喜びながらも、一同の忠誠心に報いることがもはや今生ではできないと悲しみ、せめてもの馳走を運ばせて彼らに振る舞い、酒を飲んでは楽器を奏して歌い、あたかも戦勝祝いのように大いに笑い楽しんだ。」
(中略)
「柴田は藁に火薬をまき、家屋が燃え始めると誰よりも早く信長の姉妹で数ヶ月前に娶った妻とその他一族の婦人たちを殺し、続いて短刀で己の腹を十字に切り、その場で息絶えた。」
(中略)
「羽柴やその他の敵に城内で起こったことを完全に知らせるため、柴田は死ぬ前に話術に長けた身分ある老女を選び、以上の出来事のいっさいを目撃させたあと、城の裏門から出て敵に事の次第を詳しく語らせた。」
このフロイスが記した落城の描写で、ひとつ気になることがあります。
それは勝家がわざわざ老女を遣わして、落城する城内の様子を詳細に語らせているということ。
何故、勝家はこんなことをしたのか?
それは嫁いできてわずか数ヶ月のお市の方をこのまま死なせることはできないと、無事に北ノ庄城から落ち延びさせるための時間稼ぎ、もしくはお市の方も勝家とともに滅んだということを羽柴勢に思い込ませたかったからではないでしょうか?
お市の方生存説の残る三重県伊賀市下友田に伝えられている話では、浅井長政の旧臣・浅井治郎左衛門が落城する北ノ庄城からお市の方を連れて羽柴の包囲を突破して落ち延びたと言われています。
実際、落城していく北ノ庄城から何人か足羽川を船で下って逃走したという話や、下流にある勝家ゆかりの勝久寺で北ノ庄城から逃亡してきた女性を救出したという話も残っているので、いくら羽柴軍に厳重に囲まれていると言っても、脱出することは必ずしも不可能ではなかったのでしょう。
そしてお市の方は各地で潜伏生活を送った後、慶長4年に伊賀の某村で没します。享年53歳。
お市の方を北ノ庄城から連れ出した浅井治郎左衛門は、浅井長政没後に姓を日比に変え、寛永期に入ってからさらに稲増と改姓しました。稲増屋敷の土蔵は雨請山を背にした断崖の地にあり、その造りは槍も通さない上、余人の出入りを一切拒んでいました。
そこまで徹底して人を拒み、誰も近付けなかった土蔵にはお市の方が匿われていたのではないでしょうか。
そして稲増家には、死の直後に切り取られた「お市の喉仏」が現在も伝えられているそうです。
文:ひなた