主家一筋に生きた忠節の武将といえば、豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前を制覇し、足利義輝によって九州探題に任じられ、一時は九州覇権に最も近かったと言われた大友義鎮(宗麟)の家臣・戸次鑑連(べっきあきつら)もその一人です。
戸次鑑連という名前はいまいちピンとこなくても、後に名乗った立花道雪という名前は知ってる人が多いかもしれません。
今回のコラムはまだ立花道雪が戸次鑑連、大友宗麟が義鎮と名乗っていたころのお話ですが、ややこしいのでここから先はよく知られている「立花道雪」「大友宗麟」の表記にさせていただきます。
時は永禄3年(1560年)のこと。
家督を継いで十年ほどで九州の大半を制した宗麟は次第に酒色にふけり、国政に無関心になっていきました。
家臣たちはなんとか生活態度を改めてもらうため諫言しようとするのですが、重臣たちに会えば説教されることが目に見えている宗麟は城に篭って誰にも会おうとはしません。
九州六ヶ国を制した大大名家の主が引きこもりニートでは、今は栄華を極めていても、いずれのことを考えると大友家はお先真っ暗です。
時勢を読むことに長けた戦国武将なら、このあたりで「大友家は駄目だな」と見切りをつけて再就職先を探してもおかしくはありませんが、死ぬまで大友家一筋に生きた道雪は転職なんて考えません。どうしたら宗麟の女癖酒癖の悪さが直り、真面目な生活に戻ってくれるのか知恵を絞って考えます。
他の重臣たちも「道雪だったらなんとかしてくれるんじゃないか」と、大きな期待を寄せていました。
しかし道雪は、ここで意外な行動に出ます。
なんと宗麟に説教するどころか、ある日突然京から白拍子(踊り子)を呼び寄せたかと思えば、宗麟にも負けないくらいに日夜どんちゃん騒ぎを繰り返すようになったのです。
立花道雪といえば真面目一徹な性格で知られていて、とても酒色に溺れて道を踏み外すような人物ではありません。
その道雪が人が変わったように連日連夜遊びまくっていることは、すぐに宗麟の耳にも届きました。
最初は「あの道雪が美女を侍らせて遊んでるなんて…怪しいな」と、何か裏があるんじゃないかと疑った宗麟ですが、次第に堅物で知られた道雪がどんなふうに酒と女に溺れているのか見てみたくなり、引きこもっていた城を出て道雪の屋敷にやってきました。
突然訪ねてきた宗麟に嫌な顔一つせず招きいれ、一緒に美女の踊りと美酒を堪能している道雪に、最初は疑いの目を向けていた宗麟も次第に安心していきます。
冷静に考えればただでさえ主君が酒と女に溺れている状況で、この上、重臣である道雪まで道を踏み外したら本気で大友家は終わり。全然安心できる状態じゃないんですけどね。
宗麟的には、「今まで顔を合わせるたびにガミガミと口うるさかった道雪に叱られずに済んでラッキー」くらいの感覚だったのかもしれません。
ところが大友家の行く末を心の底から考えてる道雪が、本気で道を踏み外すわけはありませんでした。
宗麟が油断しきったところで、それまでのニコニコ笑顔から険しい表情へと突然態度を一変させて、懇々とお説教を開始したのです。
後年「鬼道雪」または「雷神」の異名を取った道雪からものすごい剣幕でお説教をされ、宗麟にとってはまさに天国から地獄。しかも「もう怒られないだろう」と安心したところへのお説教だったので、普通に怒られるよりショックです。
ちなみに道雪が宗麟を呼び寄せるために白拍子に躍らせた踊りが、現在も大分県大分市鶴崎地区に伝わり、国の無形民俗文化財にも指定されている『鶴崎踊り』の起源と言われています。
文:ひなた