長政が義兄・信長にどれほど信頼されていたのか。
そのことを良く示すエピソードが、『浅井三代記』に残されています。
時は永禄12年(1569年)正月5日。三好三人衆が、京都本国寺にいた足利義昭を攻囲し、その知らせを受けた織田信長と浅井長政が京都へ駆けつける事件が起こったときのことです。
この時は明智光秀ら将軍近習部隊が討って出て、細川藤孝らの軍勢も援軍に駆けつけたため大事にはなりませんでしたが、長政は清水寺成就院、信長は一条妙覚寺を宿にしてしばらく京に留まることになりました。
桶狭間で今川義元を撃破し、足利義昭の後見人となって京へ上洛を果たしていた信長は、この時期まさに飛ぶ鳥落とす勢い。
そんな信長の覚えをめでたくしようと、京の名士たちは我も我もと信長のいる一条妙覚寺へ詰めかけました。
しかし、こんなふうに自分のところにだけ挨拶に押しかける名士たちに対して信長は、「清水寺にいる浅井備前守長政は私が大切に思っている婿だから、そちらへも見舞ってくれ」と言ったそうです。
威勢のある信長が目をかけているということを口したおかげで、京の名士たちの間にも「浅井備前守とはそれほどの傑物なのか」ということが知れ渡り、浅井長政の名前もよく知られるようになったと言います。
また三好三人衆の義昭襲撃事件について、信長は「今回このような事態が起こったのは、御座所が悪いせいだ」と義昭に進言し、同年2月には二条の御所を拡張工事することに決めました。
この普請は織田信長と浅井長政の手で行われることになり、信長方は佐久間信盛、柴田勝家、森可成に普請奉行を申しつけ、万一のときのために弓鉄砲隊を付けました。一方の浅井方は三田村佐衛門太夫、大野木土佐守、野村肥後守が普請奉行を務めています。
しかし信長が長政に特別目をかけていると言っても、織田家臣と浅井家臣は必ずしも親密というわけではありません。
何故ならこの前年の1568年に義昭を奉じた信長が上洛するにあたって、南近江の六角氏との間に起きた箕作の戦いで浅井軍も織田軍の援軍として出陣していたのですが、その働きが鈍かったと織田の兵たちは不満に思っていたのです。
そんな確執があったため、織田家臣の弓鉄砲隊は陰で浅井の足軽たちの悪口を言い、その話を聞いた浅井の奉行たちも内心腹立たしく思っていました。
そんな一触即発の空気が織田・浅井の間で流れていたある時、佐久間信盛配下の兵が自分たちの受け持っている現場から、浅井方の三田村佐衛門太夫の現場に水替えに行きました。
水替えとは地下水位以下に地盤を掘削するときに湧き出る水を排出することで、つまりは自分たちのところで出た不要水を処分するのに、わざわざ浅井方の現場に捨てにきたってことですね。
当然のことながら三田村の兵も黙ってるわけがありません。
浅井方が「どうして自分たちの現場に水を持ってくるのか」と訊ねると、
「お前たちのところで捨てず、どこに水を持って行けばいいんだ。浅井の腰抜けども!!」
という返事が返ってきたのです。
なんという見事な逆ギレ。どこに持って行けばって、自分のところで処分すればいいのに。
自分のところで水替えをされ、さらには暴言まで吐かれた浅井の足軽も激怒。300名ほどが一斉にもっこ(土を運ぶ竹かご)の棒で織田の兵との叩きあいになりました。
今まで散々影で浅井の悪口を言われて鬱憤が溜まっていたのか、このときは浅井の足軽が押しまくって佐久間側を追いたてます。
しかしこの足軽たちの喧嘩を見かねた織田方の佐久間・柴田・森の奉行が刀の鞘をはずして「かかれ!!」と下知したものだから、浅井方の奉行も喧嘩に参戦。
こうして足軽同士の些細な揉め事から始まった喧嘩は織田と浅井の奉行、さらには双方の侍や物頭まで巻き込み、信長・長政の預かり知らぬところで大きな争いにまで発展。
浅井方が森可成と柴田勝家を立売堀川まで追い立てたと思えば、織田方も負けじと浅井方を二条まで追い返す。するとまたまた浅井が織田を押すなど一進一退を繰り返す激闘となったのです。
双方が兵を引いたときには、討たれた数は両家合わせて150名ほど。
「野戦でもこれほど多くの兵が討たれることはないのに、こんな大きな喧嘩はないだろう」
と、京中の評判になったほどの大喧嘩になってしまいました。
このことは信長のコラムの中でも紹介した太田牛一の『信長公記』でも、詳細は書かれていないものの「浅井方との間で大喧嘩があった」という記述が残っているので、織田と浅井の間で大喧嘩があったのは事実のようです。
もちろんここまで大事になったからには、信長・長政の耳に入らないはずがありません。
森可成と柴田勝家は信長にこの喧嘩を報告し、「信長様から浅井になんとか言ってください!!」と訴えたのです。
しかし信長は2人の報告をそのまま鵜呑みにはしませんでした。
喧嘩の経緯、事の次第を詳細に吟味した結果、先に浅井に喧嘩を売ったのが織田の兵だったことがわかったのです。
そうなるといくら可成や勝家が訴えたところで、
「去年、箕作を攻めたときの浅井の働きが鈍かったと、お前たちの配下が悪口を言っていたのだろう。浅井家は弓取りの誉れであるのだから、今後は自分たちががさつなことを言っておいて不覚を取るようなことはするな」
と、2人の訴えをまったく取り合ってくれませんでした。
腹心に訴えられたからといって「浅井が悪い!」という報告を鵜呑みにせず、信長が公正な判断を下したのは義弟・長政への信頼もあったのではないでしょうか。
しかし一方の長政は家臣からこの喧嘩のことを報告されると、当然激怒した信長方から攻めかかってくるだろうと、逗留先の清水寺に浅井の兵を揃えて万一のときのために備えていました。
結局は翌日に足利義昭が和睦を取り持ったおかげで何事もありませんでしたが、浅井家を信じて家臣たちの報告を一蹴した信長と、信長が攻めてくるだろうと警戒していた長政・・・。
この対応の違いからも、遅かれ早かれ織田と浅井の同盟が決裂する兆しはあったんじゃないかなあと思います。
ちなみに浅井長政が織田信長を裏切り、姉川の戦いが起こったのはこの喧嘩の翌年。1570年のことでした。
文:ひなた