そしてその八丈島へ最初に流された流人というのが、備前岡山57万4千石の大大名であり、太閤豊臣秀吉の養子。豊臣政権では最年少で五大老を務めていた宇喜多秀家です。
宇喜多秀家はコラムの第8席で取り上げた、備前の梟雄・宇喜多直家の実子でした。
しかし秀家は腹の底まで真っ黒な父親にはこれっっっっっぽっちも似ず、養父・秀吉の元で元気にすくすく真っ直ぐで素直な青年武将へと育って行きました。
実の父・直家亡き後は秀吉の養子となり、秀吉夫妻が目に入れても痛くないほど可愛がっていた養女の豪姫(前田利家四女)を妻に娶り、文禄の役では日本軍の総大将として出陣。官位も文禄3年(1594年)には22歳にして中納言に昇叙されています。
そんなふうに秀吉の愛情と恩義を一身に受けて育った秀家は、秀吉亡き後に自らの天下取りを目指す徳川家康と、あくまで豊臣家の天下を守ろうとする石田三成の対立では迷うことなく三成側を指示。
副大将として西軍の中でも最大の1万7000人の兵を率いて参戦し、関ヶ原では勇猛果敢に福島正則隊と戦います。
裏切りや日和見が多かった西軍の中で、秀家は最初から最後まで一貫して家康を討ち、豊臣家を守るという姿勢を崩しませんでした。
これが実の父親だったら西軍東軍両方に上手いこと言いつつ最終的には勝つほうに付きそうですけど、秀家の場合は勝つか負けるかよりも、最初から大恩のある豊臣家のために戦うこと以外考えてなかったんですね。
しかし合戦の結果は、同じ秀吉の養子だった小早川秀秋の寝返りを機に西軍が敗北。
秀家は伊吹山山中へ逃れ、その後、島津家を頼って薩摩へ落ち延びましたが、しだいに島津も秀家を匿いきれなくなり慶長8年(1603年)に幕府へ出頭。
島津家や、秀家の妻・豪姫の実家である前田家からの必死の助命嘆願のおかげで死一等を減じられたものの、駿河国久能山に幽閉。後に八丈島への島流しが確定します。
こうして秀家は、日本史上初・八丈島への流人第1号となったのでした。
八丈島では島の名主に借用書を出して米や鰹節を借りるなど、宇喜多一族の暮らしはかなり苦しかったようです。
そのため豪姫の懇願を受けた前田家が白米70俵、金子35両、衣類などの日常品を隔年ごとに送り、また秀家の窮状を聞いた旧臣の花房志摩守が米を送って援助するなどしていたほどでした。
秀家はかつて鷹狩や猿楽、茶会などを楽しみ、鷹狩用の鷹を100羽も飼い、しかもその鷹を世話する鷹匠を300人も召抱えるなど豪奢な生活を送っていましたが、それが今では名主に米を借り、妻の実家や旧臣の援助に頼って生活しなければいけません。
それまでのお坊ちゃん生活とは、まさに天と地ほどの差。身分の浮き沈みが激しかった戦国時代においても、これほどの落差を経験したのは秀家ぐらいではないでしょうか。
そんな秀家の島暮らしの様子を伝える逸話が『兵家茶話』、同じ話が『浮田中納言秀家記』にも残されています。
島での生活が続いたある年のこと、江戸から八丈島へ谷庄兵衛という代官が赴任してきました。
庄兵衛は秀家を陣屋へ招いて宴会をすることにしたのですが、しかしこれが単なる赴任挨拶の宴会だったとは思えません。
江戸から遠く離れた島へ流されたとはいえ、秀家は元五大老。
秀吉の恩顧が最も厚く、また秀家の豊臣家に対する忠誠心も厚いことはよく知られています。
しかも秀家は関ヶ原後に薩摩に逃れたあとも、島津忠恒(島津義弘三男)に「琉球を征伐させてほしい」と頼んだと薩摩藩の古記録に残されています。琉球を手中に治めたあとは、その兵力で徳川と一戦交えるつもりだったのでしょう。
この企みは、結局琉球に辿り着く前に嵐にあって船が壊れてしまい実現することはありませんでしたが、そんなふうに隙あらば再起をはかっている秀家です。谷庄兵衛は宴会にかこつけて、秀家の様子を探りに来たのかもしれません。
そんなことは知らず、宴会に招かれた秀家は上機嫌でやってきました。
和やかな雰囲気で宴会は進んでいたのですが、その途中で庄兵衛が仰天する出来事がありました。
なんと秀家は食膳のおにぎりを一つだけ食べると、残りの二つを懐紙に包みはじめたのです。
「…この人はなにをしているんだろう?」と庄兵衛がじっと見ていると、秀家はその視線に気付いて、恥ずかしそうに言いました。
「この島でこんなご馳走には、滅多にお目にかかれません。
是非とも家で待っている妻子にも食べさせてやりたいのです」
そう言って、秀家はおにぎりを包んだ懐紙を大事そうに懐へ入れたのです。
かつては豊臣五大老の一人として、栄華な生活を送っていた秀家。
そのころはこの宴会で出された物よりもっとずっと豪華な食事が当たり前だったでしょうに、今では島の代官に恥ずかしそうに頭を下げて、おにぎり二個をおもちかえりしているのです。
確かに根っからの坊ちゃん育ちが、食事に招かれた席でおもちかえりなんて恥ずかしいでしょう。庶民だって恥ずかしくてなかなか出来ません。
そんな秀家を見て哀れに思った庄兵衛は、宴会が終わった後に、白米一俵を宇喜多家へ送りました。
庄兵衛の心遣いに大変感謝した秀家は、白米のお礼に「内赤の盆」を送り返します。これは八丈島へ武器などを持ち込むことを禁じられた秀家が持ってきたもので、天下に三つしかない宇喜多家の家宝でした。
島での生活を送るうちに秀家は島の環境に馴染み、再起をはかろうなんて気はなくなっていたのかもしれません。
一説によると家康没後に恩赦によって刑が解かれ、前田家から「前田家の親藩として10万石で迎えましょうか」という話がきたそうです。
本土へ帰れるだけでなく、大名に復帰することができる千載一遇のチャンスでしたが、秀家は「仮にも自分は豊臣五大老の一人であった。今更徳川の禄を食む気など毛頭ない」と言って断ったという話もあります。
すでに敬愛した秀吉の作り上げた豊臣家は滅亡していても、再起をはかることは諦めても、秀家はあくまで自分の中の豊臣への恩義を薄れさせることはありませんでした。
これが実の父親なら幕府に異心ないように見せかけ、恩赦を受けて本土に帰って、力を蓄えたのちに再起をはかりそうですけどね。息子はどこまでも裏表のない真っ直ぐな人物だったようです。
秀家が没したのは、徳川幕府が四代目・家綱の時代に入っている明暦元年(1655年)11月20日。享年83歳。
その後、明治政府による恩赦が出るまでの約260年間、宇喜多一族は八丈島から出ることはありませんでした。
文:ひなた