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TOP > COLUMN > 第九席 本多忠勝が主君・家康に啖呵を切ったわけとは?
第九席 殿と一戦つかまつる!「本多忠勝が主君・家康に啖呵を切ったわけとは?」

徳川四天王といえば、家康の新任が厚く、家臣団の中枢に位置した四人の忠臣のことですが、その四天王の中でも特に勇将・猛将にふさわしいのは、生涯五十数回の合戦に出ながら、かすり傷ひとつ負ったことがないという本多忠勝ではないでしょうか。
その並外れた武勇は織田信長に「日本の張飛」「花実兼備の勇士」と絶賛され、また豊臣秀吉にも「東に本多忠勝という天下無双の大将がいるように、西には立花宗茂という天下無双の大将がいる」と賞賛されました。
また武田の近習・小杉左近が「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」と詠んだ狂歌からも、忠勝の武勇がどれほどのものであったのかが伝わってきます。


しかしそんな忠勝が、生涯に一度だけ主君・家康に「宣戦布告」をしたことがありました。
それは慶長5年。関ヶ原の戦いで家康率いる東軍が勝利を治め、その戦後処理のときのことです。

東軍についた大名は加増され、一方で石田三成側の西軍についた大名は軒並み減封・改易の憂き目に合い、さらに西軍の中枢にいた大名に至っては世を騒がした罪を問われて処刑されるなど、西軍に組した大名家を次々処罰していた家康ですが、その中でも特に許してはおけず、なんとしてでも腹を切らせなければ気がすまない相手がいたのです。


それが信州上田城城主の真田昌幸と、昌幸の次男・真田信繁(幸村)。


昌幸と信繁は上田城に篭城し、徳川秀忠の三万八千の大軍を上田に釘付け。そのため秀忠は上田で無駄な時間を浪費してしまい、ついには関ヶ原での決戦に間に合いませんでした。
秀忠の大軍が決戦前に到着していれば、西軍との戦いはもっと楽だったことでしょう。家康も小早川秀秋が約束通り西軍を裏切るか裏切らないか、その動向を気にしてやきもきする必要もなかったはずです。

とはいえ騒乱の切っ掛けを作った上杉家や、戦闘に参加しなかったとはいえ西軍総大将の毛利家が大幅な減封だけで命までは取られなかったのに対し、真田だけは頑として腹を切らせようとする家康の処罰はかなり厳しい気もします。
しかし家康にとって真田という家は、それだけ厳重な処罰をしなくては気がすまない、まさに天敵ともいえる存在なのでした。

何故ならば真田が徳川に盾突き、散々に苦しめたのは今回が初めてではありません。二回目です。
最初に真田と徳川が戦ったのは、関ヶ原の合戦があった1600年から遡ること15年前。1585年(天正13年)のことでした。
当時の真田家は旧主の武田家滅亡後、生き残るために北条・上杉・徳川と次々主君を変えていましたが、しかし臣従していた徳川が北条と和睦するさいの条件として、真田領地である沼田と北条領の佐久郡を交換すると勝手に決めたことに「沼田は徳川から貰ったわけじゃない!真田が自分で切り取った領地を勝手に取引材料にするな!!」と猛反発。
そのため真田は徳川を見限り、一度は傘下から離れた越後の上杉景勝を頼って家康と敵対。
真田の動向を知った家康はすぐさま鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉たち約7000人の兵を上田に差し向けました。迎え撃つ真田兵は約2000人。兵力差は歴然です。
しかし実際に合戦が始まると、散々に叩かれて敗走したのは兵力で上回っている徳川でした。徳川が約1300人もの戦死者を出しているのに対し、真田側の犠牲者は約40人。
この上田合戦での徳川勢の様子を、徳川家重臣である大久保忠世の弟・大久保彦左衛門が記した『三河物語』ですら「ことごとく腰がぬけはて」「ふるえて返事もしない」「下戸に酒を強したるごとし」と書かれるなど、まさに真田の圧勝でした。

そんな前科がある真田がまたもや徳川に楯突き、しかも今回もコテンパンにやられたとあっては、家康が真田に対して厳しい態度を取ったのも頷けます。二度あることは三度ある。ここで真田を生かしておけば、いつまた徳川に対して牙を剥くかわかったものじゃありませんからね。

しかしどうあっても避けられないと思われた真田父子死罪に対し、なんとか助命してもらえないかと家康に嘆願したのが昌幸の長男・真田信之と本多忠勝の2人でした。
信之は父と弟が西軍加担を表明した際、信之の正室が忠勝の娘・小松姫であることから、家康を支持して東軍に参加していたのです。
「表裏比興の者」と評された父・昌幸には似ず、温厚で義理堅い性格だった信之は周囲からの信頼も厚く、忠勝もこの誠実な人柄の娘婿をとても可愛がっていました。
そんな可愛い娘婿が「自分の功を投げ打ってでもいいから、父と弟の命を助けてほしい」と言い出したときには、主君・家康の性格をよく知っているだけにさすがの忠勝も困惑しました。
けれど他ならぬ信之の頼み、しかも自分の功を引き換えにしてでも父と弟を救いたいという想いに胸を打たれた忠勝は、とにかく一度頼むだけ頼んでみようと、信之と2人揃って家康に真田父子の助命嘆願を願い出たのです。

ですが家康の反応は素っ気ないもので、どれだけ頼んでも真田父子の死罪を取り消してはくれません。
先に述べたように真田は徳川にとって天敵。二度も煮え湯を飲まされた家康としては、いくら功臣2人の頼みとはいえ簡単に聞き入れることはできなかったのでしょう。
しかし忠勝も一旦娘婿の頼みを引き受けてしまった手前、簡単に引き下がることはできません。
忠勝は娘婿のため、四十年以上も仕え続けてきた主君・家康に対し、


「どうしても我らが願いを聞き届けていただけないとあらば、それがしは伊豆守(信之)とともに沼田城に篭り、殿と一戦つかまつる!!」


なんと真正面から家康に啖呵を切ったのです。
これには家康も、忠勝と一緒に助命嘆願していた信之もびっくり。
さすがにここまで言われては家康も「そんなこと言っても駄目。真田は切腹!」と言い張ることはできず、忠勝の捨て身の嘆願のおかげで、昌幸と信繁は一命を免れ、紀州高野山の麓にある九度山に蟄居という処分となったのでした。

文:ひなた

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