しかし、そんな戦国武将の中でも、特に目的のためには手段を選ばず、後世に悪名を残した武将が「梟雄」と称されたのです。
例を挙げれば、主家を簒奪して「美濃の蝮」と呼ばれた斉藤道三。主家殺し、将軍殺し、大仏殿の焼き討ちなどの三大悪行で、信長にさえ悪人呼ばわりされた松永久秀。そして暗殺、毒殺、謀殺と権謀術数を駆使して領土を拡大した宇喜多直家などが戦国時代の梟雄ベスト3でしょう。
今回紹介する逸話の主人公は、そんな三大梟雄の一人・宇喜多直家。
直家の一生は梟雄の名にふさわしい、まさに手段を選ばない策謀に満ちたものでしたが、そもそも宇喜多家は備前の守護代・浦上家に仕えていました。
直家の祖父・能家は浦上家の中でも知勇に優れ、主君の信頼も厚い名将でしたが、家督を息子である興家(直家の父)に譲って隠居していた天文3年(1534年)に、同じく浦上に仕えていた島村豊後守に突如夜襲をかけられたのです。
宇喜多の居城・砥石城と、島村豊後守の居城・高取山城はわずか1kmしか離れていません。隣り合った城主、しかも同じ浦上に仕える同僚からの突然の襲撃に、さすがの名将・能家も成すすべもないまま自害。まだ6歳だった幼い直家は、両親に連れられて命からがら落ち延びていきました。
ここまでは、戦国時代にはよくある話。さすがの直家もまだ6歳では、後に「梟雄」と称される片鱗もありません。
直家が謀略の才能を見せ始めるのは、砥石城から逃れ、備前福岡に隠れ住んで数年たった頃のこと。この頃の宇喜多親子は、能家と縁のある福岡の商家・阿部善定のもとに身を寄せていましたが、しかし、直家の父・興家は、父の仇を討って宇喜多家を再興させるどころか、阿部家でグータラした日々を送り、挙句の果てにお世話になってる善定の娘を側室にして子ども(後の忠家と春家)を産ませた後、天文5年(1536年)に病死してしまったのです。
そんなボンクラ親父に代わって宇喜多家再興に燃えたのが、直家の母でした。母は興家の死後、直家とともに備前福岡を離れて、笠加村(現在の邑久町笠加)で尼となっていた妹に直家の養育を頼み、自身は天神山城の浦上宗景の奥方に仕えます。浦上家に仕えていれば、いつか主君に宇喜多家の再興を頼むチャンスもあると思ったのでしょう。
しかし、そんなふうに宇喜多再興のため母が必死になっているとき、直家に変化が表れてきたのです。
直家は幼いころ、さすが名将・宇喜多能家の孫だと周囲から一目置かれるほどに頭も良く、機転も利く、とても利口なお子様だったのですが、10歳を過ぎたあたりから、とたんに人が変わったように頭の悪い子になっていったのです。
『備前軍記』によると「暗愚と言われた父の興家よりさらに愚かで、近隣の住民までもが指をさして笑うようになった」ほどでした。どうでもいいですけど、息子がどれだけ頭悪くなったかの引き合いに出される興家がちょっと可哀相な気がしないでもないですね。わかりやすいけど、お父さんの立場なしです。
そんなことはともかく、夫亡きあと必死に家を再興させるために努力していた直家の母は、そんな息子の噂を聞いて大変悲しみました。宇喜多を継ぐべき嫡男の直家がお馬鹿さんでは、到底お家を再興させる望みなんて託せそうにありません。今まで必死に頑張ってきた努力も水の泡です。
しかし、そんな悲しむ母を見て、あるとき直家は周りに誰もいないときに声を潜めてこう言いました。
「安心してください、母上。私は暗愚になったわけではありません。私はいつか浦上家に仕え、祖父の仇を討つつもりです。しかし、私が賢いと気付けば、観阿弥(島村豊後守)は私を生かしてはおかないでしょう。父の興家が命まで奪われなかったのは愚かだったからです。だからこそ私も父のように愚かなふりをしているのです。どうか心配せずに、時が来れば天神山城の殿に私が仕官できるよう取り計らってください」
これには息子に失望していた母もびっくり。直家は自分がどうすれば生き残ることができるかを考え、そのために愚かになったふりをして、完璧に周囲を欺いていたのです。とても10歳の子どもの考えとは思えません。だって10歳ですよ、10歳。現代で言うと小学四年生ですよ。
でも確かに島村豊後守の高取山城と、宇喜多親子が隠れ住んでいた備前福岡はとても近いんですね。
それなのに島村豊後守は興家になにも危害を加えられることがなかったということは、放っておいても興家に仇討ちなどできるはずがないと思われていたからでしょう。
しかし、直家に祖父譲りの知謀の才があると知れれば、直家にとって祖父の仇である島村豊後守が放っておくわけはありません。だからこそ直家は自分が生き延びるために、周囲も、島村豊後守も、母親も欺いて愚かな子どもを演じていたのです。
お家再興を目指す母にとって、そんな息子の知略の才能はとても頼もしいものでした。張り切って浦上宗景に息子のことをお願いし、その甲斐あって天文12年(1543年)に宗景に召しだされた直家は、側近として仕えることになったのです。
その後の直家は、後世で「梟雄」と称される謀略の才能を存分に発揮していきます。
永禄2年(1559年)には妻の父・中山備中守を周到な謀にかけて謀殺し、そのとき念願だった祖父の仇・島村豊後守もだまし討ち。龍ノ口城城主・サイ所元常(サイは「禾+最」)が美少年好みであることを利用して小姓の岡清三郎をスパイとして送り込み寝首をかかせ、鉄砲名人の遠藤兄弟を雇って三村家親を狙撃させ暗殺(この三村家親暗殺が、日本史上初の鉄砲を使った要人狙撃事件です)、他にも娘や妹の嫁ぎ先を次々と暗殺や毒殺、謀殺で滅ぼしたり、狩の獲物と間違えたと言い訳をして敵方の重臣を暗殺したこともあります。
そんなふうに合戦らしい合戦はほとんどせず、知略を使って領土を拡大し、ついには主家をも上回る力をつけた直家は、とうとう主君・浦上宗景の天神山城を攻めて、宗景を備前から追放しました。さすがは戦国三大梟雄の一人。典型的な下克上をほとんど合戦をせずに成し遂げてしまいました。
しかし、そんな梟雄・直家も、天正9年(1581)に重い病にかかり臥せってしまうようになったのです。
はい、ここからが今回の本番。タイトルの「備前の梟雄の最期」でもわかるように、今回は死を目前にした直家のエピソードがメインですからね。今までの話は前振りです。長い前振りですみません。
病に臥せていた直家は、あるとき側近たちに「私が死んだら、お前たちは殉死をするか?」と訪ねました。
すると、周りにいた家臣たちは「私たちは殿から重恩を受けた身。もちろん死後もお供いたします」と答え、その返事に大変喜んだ直家は約束の印に盃を取らせて、それぞれの名前を書いた紙を直家が死んだとき棺に入れるように言ったのです。
そして、直家は、宇喜多家三家老の一人・富川肥後守秀安にも「皆はこう言っておるが、お前はどうだ?」と訊ねました。
秀安は実母が忠家(直家の弟)の乳母をしていた縁で直家に仕えた古参の家臣で、直家との信頼関係は寝所にも気ままに立ち入ることを許されていたほど厚いものでした。
しかし、秀安は
「そうですな。人には得手不得手というものがあり、私は若いころから何度となく合戦に出ましたし、戦場での手柄は誰にも劣っていません。つまり合戦こそが私の得手とするところです。しかし殉死はどうかと考えますと、これはどうも得手ではありません。おそらく不得手でしょう」
と、答えたのです。遠まわしに長々と言ってますけど、簡単に言うと「嫌です」ってことですね。
今までの家臣たちは即答で「もちろん殉死しますよ!」と言ってくれたのに、信頼している秀安に「NO!」と言われて、さすがに直家もむっとします。
しかし、そんな直家に向かって秀安は、「どうしても殉死をお求めになるのでしたら、法華経の坊主にでもお命じになればいかがでしょう」と言いました。
家臣が殉死するかしないかの話をしていたのに、突然法華経のお坊さんを推薦されて直家もびっくり。思わず「なに。法華経の僧に?」と問い返すと、
「死後の世界は現世とは万事勝手が違っています。しかし、黄泉の世界を職分とする僧侶たちならば勝手もわかっているでしょうし、坊主に殉死をさせ、冥土の道案内を申しつけられれば殿が極楽浄土へお越しになれるのは間違いありません。けれど私たち武士は合戦以外なにも知らず、冥土で殿のお供を務めましても地獄へご案内申し上げるだけでございます。殿が普段から篤く信仰されている日蓮宗の坊主こそ、死後のお供にふさわしいかと存じます」
秀安はそう答えたのでした。すると直家は「わかった。お前の言うことはもっともだ。私が間違っていた」と納得し、以来、二度と家臣に殉死を強要することはなかったと言います。
この話は正徳6年(1716年)に成立した『武将感状記に収録されていますが、しかし、直家は本当に殉死をしてほしくてこんなことを言い出したのでしょうか?
安永3年(1774年)に成立した『備前軍記』では、この逸話について直家の真意は別のところにあるのではないかと述べています。
つまり、殉死を強要するようなことを言ったのも、それに対して秀安が反論して、最終的には殉死をしないようにとの結論に落ち着いたのも、直家と秀安があらかじめ示し合わせた上での演技だったのではないかというのです。確かにいくら死を目前にしたとはいえ、備前の梟雄とまで恐れられた直家が家臣に殉死を求めるようなことを言い出すとはちょっと考えられません。
なにせこのとき宇喜多の跡取りである八郎(後の宇喜多秀家)はまだ9歳でしかないのです。
自分の死は暫く隠すようにとか、真偽のほどはわかりませんが後妻であり秀家の生母でもあるお福の方に「秀吉は無類の女好きと聞く。お前の色香で秀吉に取り入り、宇喜多を守ってくれ」と頼んだとも言われているほど宇喜多家の行く末を案じていた直家が、生きていれば秀家の力になってくれるはずの家臣に殉死を求めるとは思えません。
ましてや口約束や誓紙などが如何に当てにならないものなのかは、裏切りや謀略を繰り返し、徹底的な現実主義・実利主義であった直家が誰よりもよく知っていたはずです。
冒頭の前振り部分で書いた「幼いころに暗愚を装って周囲を欺いていた」ときのように、死を目前にしたこのときも、直家は真意を隠して周囲を欺いていたような気がします。
知略と策略によってのし上がった備前の梟雄は、死ぬ最後の最後まで策謀に彩られた人生を送ったのではないでしょうか。
文:ひなた