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第七席 第六天魔王の目にも涙?「織田信長と山中の猿」

第7席 第六天魔王の目にも涙?「織田信長と山中の猿」

織田信長と言えば、それまでの常識を覆す革新的な戦術や政策を駆使して日本半国を支配し、戦国を終焉へと導いた、まさに戦国時代を代表する英雄です。
しかし信長の一般的なイメージと言えば、自分に背いた浅井長政親子・浅倉義景の頭蓋骨を漆で塗り固めて金粉を施したものを酒の肴にしたり、比叡山延暦寺を焼き討ちして数千の人間を虐殺し、自らを『第六天魔王』と称するなど苛烈で非情な性格という印象を持っている人が多いと思われます。
後世の創作になりますが、信長・秀吉・家康の天下人たちの性格を表したホトトギスの句も、信長は『鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス』と、かなり過激な内容になってますしね。

しかし信長が冷酷無比なだけの男かと言うと、そうではありません。
信長は後世に残るほど残虐なことをする一方で、とても同じ人間がした行いとは思えないほど慈悲深いこともしているのです。

今回は第六天魔王と恐れられた信長の、意外なまでの優しさが表れた逸話をご紹介します。


それは天正3年のこと。美濃と近江の国境に山中という集落(現在の岐阜県関ヶ原町山中)があり、そこで身体の不自由な者が雨にうたれて乞食をしていました。
信長は京へ行き来する際に何度かその姿を目撃していて、その度に男を哀れに思っていたのです。
そんなあるとき信長は、「乞食というのは住む場所が定まらずに流れ歩くものだが、この男はいつも同じ場所にいる。これは何故なのだろう?」という疑問を抱き、山中の村人に事情を尋ねました。
すると村人は「あの者の先祖はその昔、この山中の地で常盤御前を殺し奉ったのです。その報いとして子孫は代々身体に障害を持って生まれ、乞食をする定めとなっており、我々はあの者を”山中の猿”と呼んでいます」と答えました。

ちなみにご存知の方も多いと思いますが、常盤御前というのはかの有名な源義経の母です。
常盤御前の最期がどうなったのか、正確にはわかっていません。
しかし関ヶ原町山中には「牛若丸が鞍馬山を抜け出して東国へ向かったと聞いた常盤御前はその身を案じ、乳母の千種と共にその後を追ったものの、途中で土賊に襲われて落命。哀れに思った土地の者が常盤御前の墓を建てた」と伝えられる常盤御前のお墓が実際に存在します。
この伝説に出てくる「土賊」というのが山中の猿の先祖と言われているそうなんですが、常盤御前を殺したという張本人の先祖ならともかく、子や孫、曾孫が延々と報いを受け続けるなんて、なにもしていない子孫にしてみればえらいとばっちりですね。


話が脱線しましたが、とにかく村人と信長の間でそんなやり取りがあった後の6月26日のこと。
急用があって再び京に上る途中、信長はふと”山中の猿”のことを思い出しました。
そこで信長はお供に持たせていた荷物の中から木綿二十反(ニキロ平方メートル)を取り出して山中に到着すると、「お前らにちょっと言いたいことあるから、山中の村人は男女問わず全員集まるように!」というおふれを出したのです。
突然信長から「村人全員集合!」なんて言われて、村人たちは皆ドキドキのガチガチ。しかし一体なにを言われるのかとビクビクしていた村人の前で、信長は持ってきた木綿二十反を”山中の猿”に与えると、

「この反物半分の費用で、誰かの家の隣に”山中の猿”が住める小屋を作ってやってくれ。そして毎年麦の収穫のときには一度、米の収穫の秋にも一度、”山中の猿”が餓死しないように村人全員で面倒を見てやってくれれば、私はとても嬉しく思う」

と言い出しました。
それまで浅井・朝倉を滅ぼしただの、比叡山を焼き討ちしただの、将軍を追放しただの、しかもつい1ヵ月ほど前の天正3年5月には長篠で武田勝頼率いる武田軍を壊滅的なまでに打ち破ったなど、荒々しさだけが伝わっていた信長のあまりにも優しい言葉に村人全員びっくりです。
しかも信長は「こうしろ!」と命令するわけでもなく、費用はちゃんと自分が負担してやった上に「やってくれれば嬉しい」と、上から押さえつけるような言い方は一切していません。
この信長の優しさに”山中の猿”だけでなく村人全員が感動して、信長のお供まで貰い泣きしたというのですね。
第六天魔王を自称し、恐れられていた人とはとても同一人物と思えない優しさです。

この”山中の猿”の逸話は、信長関係の史料の中では正確性が高いと言われている太田牛一の『信長公記』の中で紹介されていています。
この『信長公記』が成立したのは、江戸時代初期。信長が生きているころでしたら信長をヨイショするためにこんな話を捏造した可能性もありますが、徳川の世で信長の好感度を上げたところで太田牛一に得があるとも思えないので、恐らく事実か、それに近い出来事は実際にあったと思われます。

この”山中の猿”に対する優しさ以外にも、信長の軍が通ることに気付かず居眠りをしていた農民に「殿が出陣するというのに居眠りするなど無礼者め!叩き斬ってやりましょう!!」と激怒した家臣に向かって、「構わん。私はこうして民が平和に暮らせるように戦っているのだからな」と笑って言ったというエピソードも残されていて、織田信長という人間は単なる残虐な独裁者ではなく、本質は優しい人柄だったんではないでしょうか。

文:ひなた

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