赤備えを率いて常に徳川隊の先陣を切った、赤鬼・井伊直政。
代々徳川に仕えた譜代大名ではない上に、本多忠勝、榊原康政、酒井忠次など同じ徳川四天王の中でもっとも年齢が若かった直政ですが、家康に対する忠誠心は徳川家臣随一のものでした。
そのため家康も直政をとても可愛がり、厚い信頼を寄せていたのです。しかし、それが返って譜代の徳川家臣にとっては「あんな新入りの小僧を何故殿は可愛がるのだ!」と面白くなかったのでした。
後年は直政と親しくなる同じ徳川四天王の榊原康政でさえも、直政に武田の旧臣である赤備えが与えられたときは「元服したての小僧などに、武田の旧臣がまとめきれるものか!こうなったら直政と刺し違えてやる!」と激怒したと言われてるくらいですからね。三河武士は結束が固いと言われている分、よけいに譜代と新参のあいだの溝が深かったのかもしれません。
なんだか豊臣政権の中で石田三成を筆頭にした文治派と加藤清正や福島正則を筆頭にした武断派が争ったり、宇喜多秀家の家中で古参の日連宗信者家臣と新参のキリシタン家臣が争ったのに似てます。どこの組織にも大なり小なり派閥争いはあるもんですね。
そんなふうに家康のため誠心誠意徳川家に尽くしても、度々同僚から妬みややっかみを受けていた直政。
しかし直政自身も気性の激しい性格だったようで、ただ黙って言われているがままではありません。
今回はそんな直政の性格がよく現れた逸話をひとつご紹介します。
『井伊年譜』によると1576年に武田勝頼と徳川家のあいだに遠州芝原合戦が起こった頃。
このとき、直政はまだ16歳。元服も済ませていなくて、井伊直政ではなく井伊万千代と呼ばれていました。しかも家康に仕えるようになってから、まだ1年ほどしかたっていません。言わば入社して1年のペーペーです。
そんな万千代が、ある日「どうしても欲しい」と家康が所有している馬をねだったことがありました。仕官して1年の新人にしては大胆なお願いですが、家康も目をかけている万千代のお願いとあって、数ある馬の中から栗毛の名馬を与えたのです。
これを聞いて激怒したのが、三河時代から家康に仕えてきた本多重次。「鬼作左」の異名、また「一筆啓上」から始まる日本一短い手紙でも有名な武将です。
本多重次はその豪快な性格から、主君である家康にもはばかることなくはっきりと言いたいことはいうタイプでした。そんな重次の耳に「井伊万千代が、殿から栗毛の名馬をもらった」との噂が入ってきたのです。
先ほども言ったように、直政は当時まだ元服を済ませていません。元服をもって「一人前の男」と扱われる当時において、元服も済ませていない万千代はまだまだお子様。そんな子どもに名馬を与えるなんて、重次にしてみれば到底納得できるものではなかったのでしょう。
確かに入社したての新入社員が「欲しい」と言ったからって、社長がぽんっと高級外車をプレゼントしたら…他の社員は「なんであいつばっかり!贔屓だ!!」と思うでしょう。そう考えると重次が怒ったのも、わからないでもないです。
しかしさすがに徳川家重臣が元服前の子どもを捕まえて文句を言うのは大人気ない…と思ったのかどうかはわかりませんが、家康に対してもずけずけと物を言う重次にしては遠まわしに、直政がいるところでわざと聞こえるような声で「万千代のような小僧に、あのような名馬を与えるなど!殿の目も曇ったのではないのか!?」とチクチクした嫌味を言いました。
なんだかわざと聞こえるように嫌味を言うというあたりが嫁姑戦争のようですが…とにかく、重次にこんな屈辱的なことを言われても、当時まだまだなんの武功もなく新参者だった直政には言い返すことができません。ぐっと我慢します。
しかし、かなり負けず嫌いで根に持つ性格だった直政の中には、このとき重次に対して「今に見てろよ!」と闘争心に火がついたのでした。
それから月日は流れ、直政は徳川家臣の中でもめきめきと頭角をあらわし、武田の旧臣・赤備えを率いて戦場を駆け巡る猛将へと成長していきます。その戦場を走る直政の乗る馬こそが、あのとき家康に与えられた栗毛の名馬でした。
そして家康が関東に封ぜられたとき、直政は上野箕輪に十二万石を与えられたのに対し、一方の重次は3000石。かつての立場と完全に逆転したのです。
今こそ昔に恨みを晴らすときがきた!!とばかりに、ある日直政は重次を呼び止めてこう言いました。
「昔、拙者が殿から栗毛の名馬をいただいたとき、貴殿は拙者のことを小僧、殿のことは目が曇ったのではないかとおっしゃられましたな。しかし今こうして大身となれたのは、拙者が殿からいただいた名馬に違わぬ働きをしたからです。今となっては、目が曇っていたのは本多殿だったようですな!」
思わず台詞の最後に「ざまーみろ!」とでも付けたくなるくらい、直政の溜まりに溜まった鬱憤が伝わってくるような啖呵です。そんなに悔しかったのか…。
直政が重次にこの台詞を言ったのがいつ頃なのか正確にはわかっていませんが、直政が大身となってからとのことなので、家康が関東に入った1590年頃なんじゃないかと思われます。
重次に嫌味を言われたのが1576年の直政当時16歳…そして逆襲をしたのが1590年(推定)ということは直政当時30歳です。実に14年間も根に持ってたのか!と思うと、直政の執念深さをひしひしと感じますね。
でも直政がここまで重次の一言を根に持ち続けていたのは、自分を「小僧」と馬鹿にされたことより、誰よりも尊敬している家康のことを「目が曇った」なんて言われたからではないでしょうか。
家康が自分に名馬を与えたことが間違っていなかったことを14年かけて証明したのだと思うほうが、家康第一の忠臣と言われた直政らしい気がします。
文:ひなた