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第三席 関ヶ原で凄絶に散った鬼!「島左近の軍装とは?」

戦国武将には異名を持っている人が多いです。有名なところで言えば、織田信長の『第六天魔王』、伊達政宗の『独眼龍』、武田信玄の『甲斐の虎』、上杉謙信の『越後の龍』等など。

そんな異名を調べてみれば、『鬼』が付いている人がかなり多い。佐竹義重の『鬼義重』、柴田勝家の『鬼柴田』、島津義弘の『鬼島津』、立花道雪の『鬼道雪』、服部半蔵の『鬼の半蔵』、森武蔵守長可の『鬼武蔵』、本多作左衛門重次の『鬼作左』、片倉小十郎重綱の『鬼の小十郎』などオードソックスに名前・官命・通称などに『鬼』がくっついている異名や、赤備えを率いて勇猛に戦い『赤鬼』と呼ばれた井伊直政、朝鮮出兵で朝鮮兵に『鬼将軍』と恐れられた加藤清正なども異名に『鬼』が入っています。

そしてもう一人。『鬼』と呼ばれ、後世までその強さが語り継がれた武将がいました。

石田三成が四万石のうち二万石(一説には一万五千石とも)という高禄を与えてまで召抱えた、島左近です。『鬼左近』と呼ばれ、関ヶ原の合戦で散った勇将・島左近。今回は、そんな左近の強さを表した逸話をご紹介します。

関ヶ原の戦いから数年たったある日のこと。黒田長政の居城・福岡城では、かつて関ヶ原の戦いに参戦した武士たちが集まって、若い武士たちに当時のことを語ってきかせていました。かの有名な天下を分けた大決戦を、若者たちに向かって語るのです。自然と己が武勇伝を語る武士たちも、

「わしは向かってくる敵を斬っては捨て、斬っては捨て・・・」

「なんのなんの。わしなんて敵の首級を三つ…いや、五つは挙げてやったわい」

なーんて事実三割増しくらいに言っていたかもしれません。そして、そんなことを話しているうちに話題は石田方の武将・島左近のことへ移っていきました。

黒田長政隊は関ヶ原合戦当時、左近を狙撃して一時退却に追い込むなど、左近率いる部隊とと正面からぶつかっていた部隊。つまり後世まで『鬼』と称えられた左近の戦いぶりを、一番間近でみていたのです。

しかし左近の話になった途端、さっきまで機嫌よく武勇伝を語っていた武士たちは、「石田三成の侍大将、鬼神をも欺くと言われた島左近の有様がまだ目に焼きついているようじゃ」と途端に弱気に。

おいおい、斬っては捨て斬っては捨てじゃなかったのか?首級を三つも五つも挙げたんじゃなかったのか?と、突っ込んではいけません。それだけ左近の戦いぶりが恐ろしかったのです。そんな話をしているうちに、

「そう言えば、あのときの島左近の軍装ってどんなんだっけ?」

と誰かが言い出しました。もう一度言いますが、黒田隊は左近を遠目にチラっと見たわけではなく、正面からぶつかっています。左近を間近で見た武士たちは、口々に自分の記憶にある左近の軍装を話し始めました。

しかし、一人が「左近はこんな格好だった」と言えば、すかさず「それは違う。左近はこんな格好だった」と反論が入り、それに対して「いや、それも違うぞ」と反論の反論が入る始末。結局、黒田家の武士は皆違う軍装を主張したのです。これでは埒が明きません。

ちょうどそのころ黒田家には関ヶ原合戦当時は石田三成に仕えていた人物がいたので、その者を呼んで、当時の左近の軍装がどんなものだったかを訊ねることにしました。すると返ってきた答えは、

「兜の立物は三尺ほどある朱の天衝、甲(よろい)は溜塗り桶皮胴で、木綿浅黄の羽織を着ていました」

この答えに皆ビックリ。なんと正解者は誰もいなかったのです。

一尺はセンチメートルになおすと30.3030303センチメートル。三尺ということは90.9090909センチメートルあるということです。しかも天衝は朱。朱色は大体想像つくと思いますけど、←こんな色です。

しかも羽織は浅黄色(あさぎいろ)でした。「あさぎいろ」と言えばなんとなく新撰組の羽織を思い出しそうですが、あれは浅黄色ではなく浅葱色です。

浅黄は「うすぎ」とも読み、よく浅黄と浅葱を同じ色としていたり、浅葱色を浅黄色と言っていたりと非常にややこしいのですが実際には二色は違う色なのです。

浅黄は刈安草と灰汁で浅く染めたうすい黄色のことで、←こんな色。

浅葱は青み勝ちの浅い緑青色のことで、←こんな色のこと。

左近が着ていたといわれる羽織は「浅黄」のほうです。でもこの左近の逸話が載っている『常山紀談』は江戸時代に書かれた本なのですが、浅黄と浅葱が混同され始めたのもまた江戸時代らしいため、このときすでに浅黄と浅葱の混同が始まってた可能性も無きにしも非ず。ああややこい。

話が逸れましたが、上記のように左近はとても派手派手しい格好をしていました。

しかしそんな一度見たら忘れなさそうな左近の派手ないでたちを、不思議なことに直接左近と戦った黒田家の武士たちは誰も覚えていなかったのです。

しかしだからと言って「誰にも覚えてもらえないなんて・・・島左近ってそんなに影が薄かったの?」と思ってはいけません。それ間違った解釈です。

黒田家の武士たちが誰も左近の軍装を覚えていないのは、あまりにも左近が恐ろしくて正面から見ることができず、そのために誰の記憶にも残っていなかったため。

関ヶ原での左近の戦いぶりは、直接対峙した武士たちが「もし左近を横合いから鉄砲で狙撃しなければ、きっと我々の首は左近の槍で取られていたことだろう」と語ったほど、まさに鬼気迫るものだったのです。

文:ひなた

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