戦国コラム第四十五席 地名にまつわるあれこれ。「小豆餅?銭取?由来は徳川家康の食い逃げ!?」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第四十五席 地名にまつわるあれこれ。「小豆餅?銭取?由来は徳川家康の食い逃げ!?」

  • 私達の生活に当たり前のように馴染んでいる『地名』
    身近すぎて気にも留めなかったりしますが、調べてみると『地名』の由来が戦国期にあることが意外と多いんです。

  • 例えば地名の由来が【戦国武将が名付けた】例だとこんなものがあります。

  • ・岐阜
    →元は「井口(井ノ口)」と呼ばれていたが1575年(天正三年)に織田信長が「岐阜」と改名。
    「岐阜」は古代中国で殷王朝を倒して周王朝を築いた文王が起った「岐山」の「岐」と、孔子の生誕地「曲阜」から一文字ずつ取ったという説があります。
    (しかし信長改名以前から禅僧の間では「岐阜」という名称が使われていたなど由来は諸説あります)

  • ・長浜(滋賀県)
    →元は「今浜」と呼ばれていたが、秀吉が信長の名前から一文字取って「長浜」と改名。

  • ・福岡
    →黒田長政が筑前に入国したとき、黒田家発祥の地である備前国福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町)の名前を付けたことが始まり。

  • ・福井
    →元は「北ノ庄」と呼ばれていましたが「北」は「敗北」に通じるとして、福井藩三代目藩主・松平忠昌が縁起の良い名前にしようと「福が居る」と書いて「福居」に改名。その後「福井」となりました。

  • ・無鹿(宮崎県)
    →古くは「牟志賀」と書きました。名付け親は豊後の切支丹大名・大友宗麟。
    宗麟は宣教師から聞かされた西洋音楽を気に入り、ラテン語で「音楽」を表すムジカ(musica)と名付けました。
    この地に理想の切支丹王国を作ろうと家臣たちを引き連れて移り住みましたが、耳川の戦いで島津に大敗した大友軍は1年足らずでこの地を去らなくてはならなかったそうです。

  • 次に【戦国時代に起こった出来事が由来】となっている地名。

  • ・談合坂(山梨県)
    →北条氏と武田氏が和議の話し合いをした場所。
    または武田信玄の娘が北条氏に嫁ぐとき、婚儀の話し合いをした場所という説もあります。
    (上記二つ以外にも説はありますが戦国と関係ないので割愛)

  • ・羽犬塚(福岡県)
    →この地名の由来となった話が少し面白いです。
    二つ説があるのですが、共に豊臣秀吉と関わりがあり、しかし内容的にはまったく違うものが伝わっています。
    ひとつは、この土地には昔から羽のはえた獰猛な犬がいて家畜や人間を襲っていました。
    天下統一を目指して九州征伐にやってきた秀吉軍もこの犬には島津勢以上に悩まされ、ついにはこの犬を退治してしまいます。しかし羽の生えた犬の勇敢さを称えて塚を作ったというもの。
    もうひとつは、秀吉はまるで羽が生えたかのようなすばしっこい犬を飼っていましたが、この愛犬がここで死んでしまったため、悲しんだ秀吉が塚を作ったという説。
    秀吉を悩ませた犬と、秀吉が可愛がった犬。どちらが真実かはわかりませんがひとつの地名にてまったく違った二つの由来が伝わっているのは面白いですね。

  • ・天下茶屋(大阪府)
    →天下茶屋の名前は、昔この土地にあった茶屋に由来しています。
    元々この地には森があり、千利休の師・武野紹おうがここの湧き水に注目して森を切り開いて茶室を建てました。
    以後「紹おうの森」と呼ばれるようになり、その後この森の西側を芽木小兵衛光立という人が開いて茶店を出しました。
    この地が「天下茶屋」と言われるようになったのは、豊臣秀吉が住吉神社参拝に行くとき(堺政所に行く途中という説もあり)、秀吉の共をしていた千利休にこの茶店の清水で茶を立てさせたところ大層美味であったことに満足し、この泉に「恵の水」の名と年に玄米三十俵の朱印を与えたそうです。
    以来、この地を『太閤殿下の茶屋』『天下人の茶屋』などから「天下茶屋」と呼ばれるようになったとか。

  • 次は【戦国期の人物が居住していたことに由来】する地名。

  • ・有楽町(東京都)
    →これは有名ですね。織田信長の弟・織田長益こと織田有楽斎の屋敷があったことに由来しています。

  • ・立売堀(大阪府)
    →大阪の人間以外だと一発で読める人はあまりいない(大阪の人間ですが数年前まで「たてうりぼり」と読んでました…)地名。
    これは「いたちぼり」と読みます。
    この場所は大坂の陣のとき、伊達家が陣所を設けて深い堀を作りました。
    その堀のことを「伊達堀」と呼び、後に「伊達」を「だて」ではなく「いたち」と呼ぶようになったため「いたちぼり」と呼ばれます。
    漢字が「立売」となっているのは、伊達堀沿岸で材木の立売り(たちうり)が許可されたため字を「伊達」から「立売」に改めましたが、読み方だけは今までどおりにしたため漢字は「立売堀」でも読み方は「いたちぼり」として残ったそうです。

  • 上記で紹介した地名以外にも、京都府伏見区は大名屋敷がたくさんあったため、今でも町名に戦国武将の名前が数多く残っています。
    郵便局のHPで伏見区の住所一覧を見てるだけでも、戦国ファン的にはたまりません。小1時間は暇を潰せます。

  • と、言うわけでここからが本題です。
    多分本題より前置きのほうが長いのは、地名について色々調べてたら思いのほか面白くて、しかも次から次へと出てくるもんだから思わずあれやこれやと調べまくったせいです…。長々とすみません。

  • さて、本題ですが静岡県浜松市に「小豆餅」と「銭取」というちょっと変わった地名があります。
    この地名の由来を辿るには、徳川家最大の負け戦・武田家との三方原の合戦にまでさかのぼらなくてはなりません。
    三方原の戦いで、武田信玄率いる戦国最強・武田騎馬隊の前に徳川隊は大敗。家康は命からがら居城・浜松城まで逃げ帰ります。
    このとき馬上で脱糞したとかしないとか言われているくらい、まさに家康にとっては死に物狂いの逃走だったことでしょう。
    そんな武田隊から必死で逃げている途中、家康はお腹が減って減って仕方がなくなりました。
    お腹減った。お腹が減りすぎてもう一歩も歩けない。なんか食べたい食べたい。と、駄々をこねたり…は、さすがになかったでしょうが、それでも空腹すぎて走る力も落ちてきます。
    生きるか死ぬかの瀬戸際で随分余裕じゃないかと思わないでもないですが、腹が減っては戦は出来ぬともいいますし、ガソリンがないと車が走らないようにエネルギー補給は大事なんですね。
    そんなわけでなにか食べ物はないかと見回してみると、ちょうどいいところに一軒の茶店。その中では一人のお婆さんが小豆餅を売っていました。

  • これはいい!!

  • すぐさま店に飛び込んだ家康は売っていた小豆餅をぺろりと平らげてしまいます。
    ここで家康が小豆餅を食べたことが「小豆餅」の地名の由来になっているんですね。
    しかし忘れてはいけないのは、家康は只今武田隊に追撃されている真っ最中ということ。当然悠長に小豆餅なんて食べてるものだから、すぐそこまで武田の追っ手が迫ってきました。

  • これはいかん!!

  • 家康は慌てて店を飛び出して、再び浜松城への逃走を始めます。…小豆餅の代金を払わず。
    そう、後の天下人、大御所様、権現様がまさかの食い逃げ。
    普通だったら茶店の婆さんは泣き寝入りです。だがしかし、この婆さんが只者ではありません。

  • 「ちょっと待てやゴルアアアアァァァァ!!!!!!!!!!金払わんかいいい!!!!!!!!!」

  • なんと小豆餅代を払わず店を飛び出した家康をまさかの追撃。なんと武田隊だけでなく、家康は茶店の婆さんにまで追われることとなったのです。
    若い人に通じるかはわかりませんが、私は最初この逸話を聞いたとき思わず漫画太郎の絵で想像してしまいました。
    逃げる家康。追う婆さん&武田隊。やがて武田隊が追撃を諦めても婆さんは諦めません。ダッシュダッシュ。婆さんが走る。小豆餅代を払ってもらうまで婆さん執念の追撃が続きます。

  • そしてなんと、2キロの追撃の末に婆さんは家康をとっ捕まえて小豆餅代を払わせることに成功。
    この家康から銭を取った場所が「銭取」の由来となっています。
    戦国最強武田騎馬隊からも逃げることができた三河武士も、茶店の婆さんには敵いませんでした。恐るべし茶店の婆さん。さすがは茶店の婆さん。ていうか何者なんだ茶店の婆さん。

  • 「銭取」は現在では地名として残っておらず、僅かバス停にその名前が残るほど。
    ですが、徳川三百年の礎を築いた徳川家康から金を取った婆さんの武勇伝は今後も語り伝えられていくことでしょう。

  • *「小豆餅」「銭取」の由来については、「三方原合戦で戦死した人を弔うために小豆餅を供えた」という説や、「辺鄙な場所だったんで追剥が出ていたため」などもあります。
    でも私は真偽のほどはともかく、この婆さんの話が大好きなので紹介させていただきました。

  • 皆さんも普段何気なく見過ごしている身近な地名が、意外と戦国武将に由来しているかもしれませんよ。
    楽しいので一度調べてみることをお勧めします。

    文:ひなた