第四十四席 石碑に刻まれた協同精神「毛利元就と百万一心」
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毛利元就の有名な話と言えば、Jリーグチーム「サンフレッチェ広島」の名前の由来にもなった「三本の矢」が有名です。 死を間近にした元就が枕元に毛利隆元、吉川元春、小早川隆景の三人の息子を呼び、「一本の矢はたやすく折れるが、三本たばねた矢は簡単には折れない。お前達も兄弟三人が力を合わせて毛利家を守っていくように」という兄弟の結束を訴えたこの話は、元就の死の間際には長男・隆元がすでになくなっていることから本当にあった出来事ではなく、元就が息子たち宛に出した書状を元に作られたと言われています。 「三子教訓状」と呼ばれるその手紙は十四ヶ条からなり、元就が61歳のときに書いたものです。 元就は教訓状の中で、繰り返し兄弟が力を合わせることの必要性を説いています。矢の例えは出てきませんが、内容的には広く知られている「三本の矢」と同じような内容ですね。 息子たちに説いた「協同精神」は元就の心に深く根ざしていたものらしく、元就にはもうひとつ「協同精神」を家臣に説いた逸話が残されていました。
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それは毛利の本城・吉田郡山城の築城工事のときのこと。
郡山城の姫丸壇の石垣が、何度組んでも、何度組み直しても崩れてしまい、そのせいで工事は遅々として進まなくなったことがあります。 当時はまだまじないや迷信がまことしやかに信じられていた時代。 こんなふうに工事が難航するのは神仏の祟りではないかと考えた普請奉行たちは、祟りを鎮めるために一人の少女を人柱に立てることにしました。
しかし人柱の話を聞いた元就は、「何百と人柱を立てようと、皆の協同なくしてはせっかく建てた城も守れない」と言い、高さ六尺(1.8m)、巾二尺(0.6m)の巨石に「百万一心」と言う文字を刻んで人柱の代わりに埋めるよう家臣に命じました。 すると、今まで積んでも積んでも崩れていた石垣が崩れなくなり、無事に工事を終えることができたのです。
「百万一心」の「百」の字は一画を省いて「一日」とし、「万」の字は略字を用いて「一力」と表現しました。 これをバラけさせると「一日・一力・一心」というふうにも読め、また「一」の字は「同じ」という意味であることから、「日を同じくし、力を同じくし、心を一つにして協力すれば何事も成し遂げられる」という意味にもなります。 またそのまま「百万一心」と読めば「百万の(民の)心を一つにして事にあたれば何事も成し遂げられる」という意味になり、どちらの意味でも元就の訴えたかったことは家臣や民の「協同精神」の大切さだったんですね。
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またこの話には後日談があり、1816年に長州藩士の武田泰信が元就が埋めたと言われる「百万一心」の石碑を発見し、拓本の要領で石碑の文字を写し取りました。 そして1882年に山口県山口市にある元就を祀った豊栄神社に奉納したとされています。 写し取った字と、理由書きを添えた額は現在も豊栄神社に存在しますが、元となった石碑は吉田町の人々が郡山城址をを必死に探索しましたが未だもって発見されていません。 しかし現物は見つからなくても、現在も吉田郡山城址の元就の墓の正面には「百万一心」と刻まれた石碑が建ち、そして吉田町に住む人々のスローガンとなっていいます。 元就の教えは、時代を越えて今でも吉田町の人たちへと確かに受け継がれているんですね。
文:ひなた


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