戦国コラム第四十席 三徳を兼ね備えた大坂城の若武者「智・勇・仁の武将・木村重成」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第四十席 三徳を兼ね備えた大坂城の若武者「智・勇・仁の武将・木村重成」

  • 戦国時代最後の大戦・大坂の陣。
    その大坂の陣において豊臣方の武将として有名なのは真田信繁(幸村)、後藤又兵衛、長宗我部盛親、明石全登、毛利勝永などのいわゆる浪人衆が多いです。
    しかし豊臣譜代家臣の中にも浪人衆に負けない活躍をし、戦国最後の戦に名を残した武将がいました。

    その一人が木村長戸守重成。

    重成は重成の母・宮内卿局が豊臣秀頼の乳母であった関係から秀頼とは乳兄弟として育ち、早くから小姓として仕えていました。
    大坂の陣が起こったとき、重成は秀頼と同じく弱冠二十二歳。しかもこの戦いが初陣にあたります。
    にも関わらず、重成はこの短い期間に数々の逸話を残しました。
    徳川との和睦の際、家康に血判が薄いと詰め寄った話、
    討ち死にしたときに見苦しくないよう食事を制した話、
    最期の日と覚悟を決めた日の朝に首実検に備えて兜に香を焚き込めた話、
    真田信繁の甥が徳川方にいると知ると、彼らを殺さないようにと言った話等など。
    その数々の逸話の中でも、今回は重成が智・勇・仁と三徳に優れた武将であったことを表す逸話をご紹介します。

    慶長19年(1614年)に始まった豊臣家と徳川家による大坂の陣は、大きくわけて「大坂冬の陣」とその翌年に行われる「大坂夏の陣」があります。これは最初に行われた大坂冬の陣での出来事です。
    同年11月26日に大坂城の東北、大和川の北に位置する今福堤に徳川方の佐竹義宣が攻め寄せてきました。
    佐竹軍の来襲を知った重成は大坂城から出撃し、後藤又兵衛と共に今福で激戦を繰り広げます。世に言う今福の戦いの始まりです。
    兵数において上回る佐竹軍は激しく矢玉を撃ちかけ、雨霰のように鉄砲の弾丸が行きかう戦場で重成の身の危険を感じた木村半四郎が「これをお持ちください」と盾を差し出しました。
    しかし重成は一度は手に取った盾をすぐに放り捨ててしまったのです。

    「盾で矢玉を逃れようと、運命を逃れることはできぬ」

    盾で身を隠して矢玉から逃れても、所詮死ぬときには死ぬ。運命から逃ることはできない。
    弱冠二十二歳とは思えないほど冷静にそう言った重成は盾なしで突撃を続け、ついには佐竹方の武将・渋江内膳と一騎打ちを行い、遂にはその首を取るという武功を示しました。
    渋江内膳の首を取られたことが切っ掛けに佐竹勢は退却を始めましたが、そのとき重成はあることに気がつきました。
    家臣の大井何右衛門の姿が見当たらないのです。

    退却を始めたとはいえ戦場にはまだ多くの敵勢がひしめいています。
    しかし自分が預かった士を捨殺しにしては今後どうして諸士の下知ができるだろうかと、重成は単騎で戦場に舞い戻り、討ち死にした屍が散乱する中を「大井!大井何右衛門はどこだ!!木村長戸守が迎えに参ったぞ!!」と大声で叫びながら家臣の姿を探し回りました。
    散々あちこちを駆け巡った重成は、倒れていた手負いの大井何右衛門を発見します。
    幸いにも命に別状はなく、重成はすぐさま馬から飛び降りると大井何右衛門を抱きかかえて後退を始めました。
    しかし豊臣方の武将として一隊を率いる重成を討ち取ろうと鉄砲の弾が雨のように降り注ぎ、堀尾忠晴の陣からも木村重成を討ち取るべしと四、五騎の武者が飛び出してきます。
    これに驚いたのは重成よりも助けられた大井何右衛門。
    自分のために重成ほどの武将が討ち取られてはまずいと思い「私のことは打ち捨てて早くお逃げください」と懇願します。
    しかしそんな大井の懇願にも、あくまで重成は首を縦には振りません。

    「私は貴方を迎えにきたのだ。敵が来たからと言って貴方を捨てて逃げるくらいなら、始から来たりはしなかった」
    と言い、逃げるどころか槍を取って敵に討ちかかろうとしたところ、危機一髪のタイミングで重成の組下三十余騎が駆けつけました。
    重成はまず家臣に命じて大井を安全な場所まで避難させ、そして自ら殿を務めて家臣共々全員無事に退却しました。

    この話を聞いた敵味方は「天晴れ。彼は智・勇・仁の三徳を兼ね備えていると言われるが、それも無理はない」と絶賛したと言われています。

    このときの今福の戦いにおける重成の武功に対し、秀頼からは「日本無双の勇士」と絶賛の言葉と感状、正宗の太刀を賜ることになりました。
    しかし重成はその場で感状と太刀を返上してしまうのです。
    何故ならば重成曰く、

    「今福堤の合戦でのことは重成一人の武勇にあらず。
    あの場にいた全員が身命を捨てて戦ったからこそ勝利を得ることができたのです。
    そして感状は他家へ奉公するときにこそ自らの経歴を飾る役目を果たしますが、私は二君に仕えるつもりはありません。
    私は秀頼様にのみ仕え、秀頼様が御運開かれれば重成も共に武運に栄えることでしょう。
    しかしもし秀頼様の御運が尽きるときは、私は腹を掻ききって黄泉のお供を仕ります」
    そう言って涙ながらに返上する重成の姿に、秀頼を始めその場にいた人々は感涙を浮かべました。
    この重成の言葉を聴いて、豊臣を見限って城を逃れ出ようとしていた者たちも「士は義によって名を立つべきものなり」と心を改めたと言います。

    このように敵味方問わず多くの人々に鮮烈な印象を残し、重成は大坂夏の陣の若江の戦いで凄絶な最期を遂げました。
    また若江の戦いで重成隊と激突したのは、徳川家の中でも精鋭と名高い井伊直孝率いる赤備え。
    直孝は大坂の陣の論功行賞として加増を受け、寛永10年(1633年)には三十万石の大身となって譜代大名筆頭となりました。
    徳川家の重鎮としての地位を揺ぎ無いものにした井伊家は、終身持仏堂に徳川家康、井伊直政の霊位とともに、表面に「智覚院殿忠翁英勇大居士」裏面には「木村重成」と書かれた金牌を祀り、敵将・木村重成を併祭しているといいます。
    また重成の首を取った井伊家家臣・安藤長三郎の子孫は重成の150回忌を機に菩提を弔うため戦死の地に墓碑を立て、彦根藩士西村捨三は明治29年(1896年)5月に 大阪中之島の豊国神社内に重成表忠碑を建立し、その忠誠を称えました。
    現在は豊国神社は移転されて中之島にはありませんが、この表忠碑だけは撤去されることなく残されています。

    こうして死後も敵対した人々からその忠誠心などを称えられるあたり、木村重成という若武者は活躍する期間こそ短かったものの、その短い期間の輝きは敵味方問わず魅了するものだったんだなと思います。

    文:ひなた