第三十七席 肥後太守vs無敵の剣豪!「殿様の悪戯に宮本武蔵が取った戦法とは?」
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日本史を代表する剣豪と言えば塚原卜伝、柳生宗矩、佐々木小次郎、剣豪将軍として名高い足利義輝など多数いますが、やはり一番有名なのは大河ドラマにもなった二天一流兵法の祖・宮本武蔵ではないでしょうか。 出生国は播磨説や美作説などいくつかある武蔵ですが、その晩年は肥後国主・細川忠利に客分として招かれています。 今回そんな肥後時代に起きたと言われている逸話をご紹介します。
ある日の肥後の国でのこと。 その日の肥後太守はそうとう退屈していたのか、いきなり近習を呼び出してこんなことを言い出しました。
「なんとかして武蔵の困った顔が見てみたい。お前たち、武蔵が困るような方法を考えろ」
…なんというムチャブリ。唐突すぎる迷惑な命令に近習たちも困ります。 なにせ相手はあの剣豪・宮本武蔵。下手に手出しをすると返り討ちにあいかねません。 というのも、武蔵はかつて小笠原信濃守のところの包丁人が「いくら武蔵だろうと鬼だろうと、騙まし討ちにすれば勝てないことはない」と言い張り、同僚が止めるのも聞かずに後ろから木刀で襲い掛かった際、後ろ向きに体当たりをして男が怯んだ隙に右手に持った刀の鐺(こじり)で男の胸板を強く突き、倒れた男にみね打ちで右腕を四、五回したたかに打ってフルボッコにしたという実績があったからです。
- この包丁人は結局命に別状はなかったものの治療の甲斐なく包丁を握れなくなり、しばらくして暇を出されて失業したというオマケ付き。誰もこんな危険な悪戯に手を出したくありません。
しかし武蔵を困らせるという命令は肥後太守直々の命令。いくら武蔵が怖くても、近習達は断れるものではありませんでした。
そこで近習たちは集まってどうしようか、どうしようかと相談をします。
すると近習の一人から名案がでました。
武蔵は時々、肥後太守の御前に召されて話をすることがあります。そのときに武蔵は御次の間の敷居に手をついて話をするので、その話の途中で左右から襖を閉めて武蔵の首を挟んでしまえばいい、というものでした。 これなら直接武蔵に襲い掛からずに、しかも肥後太守の前で仕掛けるのだから武蔵の困った顔を太守も見ることができる。なんてパーフェクトな作戦なんだと近習たちは大盛り上がり。 個人的には、教室のドアに黒板消しを挟んでおくという古典的な悪戯と大差ないレベルのような気もしますが、とにかく作戦が決まった近習たちは早速肥後太守に報告をして武蔵を呼んでもらうことにしました。 そしてそんなことも知らずにやってきた武蔵は、いつも通りに御次の間の敷居に手をついて話を始めます。
悪戯はタイミングが命。近習たちは頃合を見計らい、武蔵の話が半ばまで差し掛かったところで「今だ!」と左右から襖を勢いよく閉めました。 挟まれる武蔵の首!!どうなるどうする宮本武蔵!!
…と思いきや、首を挟まれたはずの武蔵は平然と何事もなかったように話を続けています。 これは一体どうしたことかと肥後太守が覗き込んでみると、なんと武蔵はあらかじめ敷居の溝に長さ一尺二寸(36cm)の扇子を置いてあったのです。 これによって扇子がつっかえ棒の代わりになり、首が襖に挟まれることはなかったんですね。 悪戯は失敗してしまいましたが、肥後太守は「さすがは武蔵。いつ何時も油断をすることがない」と、武蔵を絶賛して御満悦だったとか。
これは安永5年(1776年)に細川家の筆頭家老・松井家の兵法師範である豊田景英が記した『二天記』の中に掲載されている話ですが、この話に出てくる「肥後太守」というのが細川忠利なのか、忠利の息子の光尚なのかは「肥後太守」としか記述されていないためわかりません。 類似の話は柳生宗矩にも「江戸城で敷居を枕に寝ている宗矩を驚かそうと同僚が襖を閉めて首を挟もうとしたら、溝に扇が差し込まれていて失敗した」という話があるため、この武蔵の逸話も豊田景英の創作ではないかと言われています。 それでもこういう「やっぱ武蔵はすげーよ!」と誰もが思うような逸話が真偽がどうであれ伝わっているあたり、いかに宮本武蔵という剣術家が優れていたかということだと思います。
文:ひなた


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