戦国コラム第三十六席 名君?暗君?「大友宗麟の悪行伝説と現在の 大分」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第三十六席 名君?暗君?「大友宗麟の悪行伝説と現在の 大分」

  • 豊後の大名だった大友宗麟はキリシタンとして有名ですが、現在宗麟の逸話として残されているものあまり良くない話が多いです。
    コラム第十二席の立花道雪の逸話でも紹介したとおり国政に関心をなくして遊びほうけていたのを怒られたり、家臣の妻を略奪したり、酒色に溺れたり、宗麟に限らずキリシタンにはありがちな寺社仏閣破壊の話も伝えられていたりと、個人的には大友宗麟は大好きな武将なんですが、正直他人に「大友宗麟ってどんな人?」と聞かれると説明に困るくらいあまり良い話がありません。

    その数々の逸話の中でも、宗麟が飼っていた鷹にまつわる話を今回はご紹介します。

    戦国武将の間ではやっていた趣味のひとつに「鷹狩り」があります。
    織田信長や徳川家康も鷹狩りを好み、家康の腹心・本多正信は元々家康に鷹匠として仕えていたという経歴を持っているほど戦国武将たちとは密接な関わりがある鷹狩り。
    もちろん宗麟も鷹狩りにはまって鷹を何羽か飼っていました。その中でもお気に入り中のお気に入りだった鷹がいたのですが、ある日突然行方不明になってしまったのです。
    可愛がっていた鷹の失踪に宗麟もガッカリしていたのですが、その鷹は意外なところで発見されました。
    それは宗麟が治める豊後ではなく、島津領である日向。
    日向の国人に久保山治郎という人がいたのですが、ある日どこからか飛んできた鷹を捕まえてみると野生の鷹とは思えないほど立派な鷹。
    久保山治郎は「これは思わぬ良い鷹が手に入った」と、この鷹を島津家当主の島津義久に贈ってしまったのです。
    当然元々は宗麟の鷹とは知らない義久も喜んで受け取ってしまいます。
    この話が日向から巡り巡って豊後の宗麟の耳に入ると「なに人のモンを勝手にやってんだ!」と大激怒。配下に命じて久保山治郎を捕らえてしまいました。

    これに驚いたのが島津義久。
    知らなかったとは言え自分が受け取ってしまった鷹のせいで久保山が捕われたと聞き、慌てて鷹を持たせた使者を豊後へ派遣しました。

    「大友殿の鷹と知っていたら受け取りませんでしたし、久保山も私に贈ったりせず大友殿にお届けしたでしょう。
    久保山も知らずにやったことですし、鷹もお返ししますので、どうか彼を許していただけないでしょうか」

    久保山の身を案じ、誠心誠意込めて謝罪と許しを乞うた義久でしたが、しかし何故かこの謝罪を聞いて宗麟はさらにヒートアップ。
    なんと使者の目の前で久保山治郎の首をはねてしまいました。

    わざとじゃないんだし、謝ってるんだから許してあげればいいのに…と誰もが思う宗麟の乱行。まさに「むしゃくしゃしてやった」としか言いようがありません。
    こう言った宗麟の悪行が積み重なって豊後の人々の心は次第に大友から離れていった…と言われますが、だがしかし宗麟も数々の外交戦略を持って大友領を拡大し、島津・竜造寺と共に九州三国志を繰り広げたと言われる名将。理由もなくそんなことをするとは考えにくいです。
    滅亡してしまった家は、後からその土地を治めやすいように悪い話ばかり残ることが多々あるので宗麟もそうなんじゃないかなと思います。
    よくよく調べてみると宗麟も良い話が皆無というわけではなく、キリシタン側の史料で1588年2月20日付のルイス・フロイスの書簡で島津に攻められて臼杵に篭城したときに、

    「国王フランシスコ(宗麟)は奥方、およびそこにいたキリシタンの娘たちと共に、人々の窮乏を助けるためできることはすべてし、残っていたわずかの食料を彼らとわけ、幾人かには衣服を与え、別の者には道具類を与え、できる限り時間の許す限り助けた。」

    と、隠居したあとでしたが自分の国の民をできるだけ救おうと奮闘している様子も記されています。
    キリシタン側の史料は先ほどとは逆に、キリシタンに優しく異教徒に厳しく書かれているのですべてを鵜呑みにすることはできませんが、それでも宗麟がまったく自国のことをまったく省みていなかった人というわけではないと思います。

    それに悪行ばかり残っている割には、少し前に 大分の臼杵・津久見・ 大分市内を回ったときに 大分県人の宗麟大好きっぷりに驚かされたことがありました。なににって宗麟の銅像の多さに。

    ・津久見(宗麟終焉の地)駅前に大友宗麟像
    ・宗麟墓地に宗麟の胸像
    ・同じく宗麟墓地に某水族館の社長が記念事業で作ったミニ宗麟像
    ・臼杵城址に宗麟を描いたプレート
    ・ 大分駅前に宗麟像
    ・ 大分府内城址に宗麟の胸像
    ・駅から少し離れたところにも大友宗麟像

    大分県内で宗麟関係の銅像・胸像・その他が7つも。大分作りすぎ。大分自重。
    もしかしたらこの7人の宗麟をコンプリートしたら、なにかひとつ願い事が叶うんじゃないかと思うほどの多さでした。個人的に知ってる中ではだんとつで銅像率が多い武将です。
    でもそれだけ今でも 大分のあちこちで宗麟は大事にされているということなので、世間的や歴史的な評価はともかく、やっぱり大友宗麟という人は只者じゃなかったんだろうなと思います。

    文:ひなた