第三十五席 鬼の夫に蛇の妻!?「細川忠興と妻・ガラシャの夫婦愛とは?」
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今回取り上げる人物は、前回のコラムの主役・細川忠興の妻・玉。 本名の玉よりも洗礼名の「ガラシャ(ラテン語で「恩寵」)」の名前の方が有名な、日本を代表する女性キリシタンです。
玉は明智光秀の三女として永禄6年(1563年)に生まれ、そして天正6年(1578年)には数え16歳で細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。 このときの媒酌人は父・光秀の主君である織田信長。 信長は若い夫婦を見て「まるで夫婦雛を並べてみているようだ」とご満悦だったそうなので、忠興と玉はたいそう似合いの夫婦だったのでしょう。
しかし幸せな結婚生活は四年しか続きません。 天正10年(1582年)6月に玉の父・明智光秀が謀反を起こし、信長を討つという、歴史上あまりにも有名な本能寺の変が起こってしまうからです。 このとき光秀は親友である細川藤孝・忠興親子に味方になってくれるよう書状を送りましたが、細川親子は剃髪して信長に追悼の意を示し、光秀に力を貸すことはありませんでした。 そうなると微妙な立場に置かれるのが光秀の娘であり、忠興の妻である玉。 謀反人の娘である以上は離縁されても仕方がありません。現に玉の姉は光秀と同じ信長配下の武将・荒木村重に嫁いでいましたが、村重が信長に謀反を起こしたときに離縁されて実家に送り返されています。 婚姻が政治手段の意味が強かった当時において、妻の実家が敵方になると離縁、もしくは殺される場合も有り得たのです。 しかし忠興は「謀反人の娘」となってしまっても玉を変わらずに愛し、離縁をせず、代わりに人目のつかない丹後・味土野に世間が落ち着くまで幽閉することにしました。
これほど妻を愛していた忠興ですが、前回のコラムでも言ったとおり世間一般的には「ガラシャ(玉)に対して偏狭的なまでの愛情だった」という評価が目立ちます。 信長に「夫婦雛のようだ」と言われた忠興と玉が、そんな評価を受ける理由として大きな要因がこの逸話を今回はご紹介いたしましょう。
これは細川家の家記『綿考輯録(めんこうしゅうろく)』に記されている話です。
細川家の奥の台所で何事かが起きて騒々しいことがあったとき、奥に入り込んでいた小者を忠興が見つけて手討ちにしたことがありました。 それだけではなく小者を斬って刀についた血を玉の着物で拭いたのですが、玉は少しも動揺することなく血のついた着物を3、4日着続けたといいます。 さすがにこれには忠興も困り果て、玉に謝り、ようやく血染めの着物を着替えたとか。 このときに忠興と玉の交わした会話が、そのままこの夫婦を象徴するようになってしまいました。 その会話と言うのが、忠興が「顔色ひとつ変えないとは、お前はまるで蛇のような女だ」と言うと、玉が「鬼の妻には蛇がお似合いでしょう」と返した、というものです。 結婚当時は信長に「夫婦雛のようだ」と言われた可愛らしい夫婦が鬼の夫と蛇の妻とは…人と言うのは変われば変わるもんです。
この話には少しずつ細部が違うバージョンがいくつかあって、忠興が手討ちにした者の首を玉がずっと棚に置いていたとか、手討ちにされたのは二人が一緒にいるところを見た庭師だとか色々ありますが、共通しているのは忠興が家人を手討ちにしたことから発生するアレやコレや(着物で血を拭いたり、首を置いたり)が起こっても玉は顔色ひとつ変えずに平然としていたということです。
この逸話があまりにもインパクトがありすぎて、そしてあまりにも有名すぎて、忠興と玉には「鬼の夫と蛇の妻」というイメージがついてしまったのでしょう。 また忠興には宣教師ルイス・フロイスの記述で、 「細川邸にいる女たちには、邸内では、特定の命令なくしては勝手に互いの部屋を行き来する自由がなかった。調理場などで越中殿(忠興)に奉仕する下餞の者までが、それぞれ行動を規制される掟を与えられており、それを破る者に対して越中殿は仮借のない罰を科したので、皆は文字どおりそれらの綻を守ることに務めた。」 と、細川家での規律の厳しさが伝えられているので、余計にそういったマイナスイメージを払拭することができなかったのかもしれません。まあすぐに家人を手討ちにする忠興も忠興ですけど。
しかし忠興の玉に対する愛情は多少歪んでいたとしても、本物だったんじゃないかと私は思います。 本能寺の変のときに離縁しなかったこともありますが、関ヶ原の戦いが起きて、石田三成方の人質となることを拒んで自害をした玉の葬儀を忠興は彼女が信仰していたカトリック式で行っているのです。 その葬儀は1601年に大坂で、イエズス会のオルガンティーノに依頼して行われました。 フェルナン・ゲレイロのイエズス会報告書にこの様子が詳しく記載されているので抜粋すると、
「(ガラシャの葬儀を行うために)その地方にいるすべての司祭、修道士を召集し、教会を立派に飾り、 棺の上にガラシアの名前を書いた華麗な棺台を据え、おびただしい臘燭、大蠍燭でそのまわりをすっかり囲んだ。 先立って晩課が行なわれ、翌日宵課が歌おわれ、できる限り壮麗に三時のミサが捧げられた。 越中殿(忠興)自身が、千人を越すであろうと思われるほとんどすべて異教徒の家臣とともに列席した。 そして、我らの教会に駆けつける人々の賑わいは非常なもので、何か事故が起こるかもしれないと心配されたので、 彼(忠興)自身が教会に通ずる道の入口に番卒を配した。そうでもしなげれば、何か不幸な事態が起こったかも知れない。 (中略) 説教の終りにガラシアの徳行と死について語ったので、越中殿とその家来たちはいたく感動し、涙をこらえることができず、 ただ泣くだけであった。 すべての人が我らの教会の祭式の厳粛さとその説教で聞いたことに異常に驚嘆し、我らのことどもを飽くことなく褒め、 越中殿は時々公然とこう言った。 「日本で仏僧たちが行なう聖祭はこれに比べると笑止の沙汰である。 これほど神聖で敬虔なものを見ようとはこれまで想像したこともなかった」
また葬儀のあと忠興はこの葬儀の費用の一部にと金の延棒五本をオルガンティーノに贈り、玉の遺骨が埋葬されていた堺のキリシタン墓地が保護されるように取り計らったと言います。(堺のキリシタン墓地は元々小西行長が作ったと言われていますが、関ヶ原の戦いで西軍方だった行長が処刑されたため存続が危ぶまれていました。) キリシタン禁止令を出した秀吉が没したあとと言っても、まだまだキリシタンが公に認められたわけではありませんでした。 現にこの二年後、肥後の八代で徳川時代最初の殉教者が出るという事件が起こっています。 宣教師と親しくすることは危険であるということは、忠興ならわかっていないはずがありません。それでも妻の信仰していたカトリックで葬儀を行ったのは、紛れもなく忠興の玉に対する愛情の表れだったのではないでしょうか。
鬼の夫と蛇の妻と言われている忠興と玉ですが、二人の間には我々が想像もできないような深く強い絆があったんじゃないかな、と思います。
文:ひなた


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