戦国コラム第三十四席 戦国屈指の文化人!「○○○を考案した男・細川忠興」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第三十四席 戦国屈指の文化人!「○○○を考案した男・細川忠興」

  • 細川忠興と言えば、まず連想するのが忠興の妻・ガラシャ(明智光秀の娘。明智玉。)夫人でしょう。
    美しい妻を他の男に見せることすら嫌がったという偏狭的な愛情ばかり取り上げられがちな忠興ですが、忠興本人は千利休の高弟である利休七哲の一人に数えられ、『細川三斎茶書』という著書を残し、その造詣の深さは茶の湯だけに止まらず優れた和歌や能楽、絵画にも通じ、また甲冑や兜のデザインも手がけるなど、戦国時代屈指の文化人と呼ばれた父・細川藤孝に負けず劣らずの超インテリだったのです。
    忠興が考案したものは彼の号名を取って『三斎流』と呼ばれ、肥後細川家のみならず他家にも多大な影響を及ぼしました。
    『三斎流』には茶道の茶道三斎流、大徳寺松向軒・泰勝寺迎松軒などの三斎流茶室、甲冑三斎流、三斎羽織、肥後拵等など。いかに忠興が幅広い教養の持ち主だったかがわかります。

    そして、そんな忠興の考案したもののひとつが「褌」
    日本が生んだ最高の下着・褌の中で「越中褌」と呼ばれるものは、その名前から越中(現在の 富山県)ゆかりのものと思われがちですが、なんと細川忠興の官命「越中守」から取った忠興の考案だと言われているのです。
    (ただし越中褌の由来が忠興というのは諸説ある中のひとつで、中には 富山の薬売りの景品として使われていたという説もあります。)
    「越中守の考案した褌」=「越中褌」の名前で現在も親しまれているこの褌は、最近ではデパートなんかで「クラシックパンツ」というオサレな名前で売られたりしますね。
    でも個人的にはそんな造語横文字よりも、日本人らしい褌という呼び方のほうが好きです。

    そんな褌界でも如何なく才能を発揮していた忠興に、ある日、医師・伊藤三白はこんな質問をしたことがありました。

    「戦の時、深手を負ったり討ち死にした者はいずれも下帯がありませんでした。
    大坂夏の役のときに安藤治右衛門正次が討ち死にした死体を収容した者から聞くところによると、討ち死にした者たちの下帯がないのはどういうことだろうかと皆不審がっていたそうです。
    例え分捕りをするにしても甲冑や大小の類を取っていくものでしょう。
    下帯がないというのはなんとも合点のいかない話です」

    確かに戦場で討ち死にした者から甲冑や太刀などを持って行って売りさばく者はいるかもしれませんが、甲冑や太刀ではなく褌を狙って持っていくというのはあまり聞かない話です。
    ていうか、そんな褌専門に分捕っていくなんてどんな変態だって話ですよね。
    しかしこの話を聞いた忠興は不思議がる伊藤三白にこう答えました。

    「なるほど。確かに下帯がないこともあるだろう。
    何故なら人の身体というものは血気にて保たれているものである。
    血気が体内にあるときは上帯・下帯とも結ばれているものだが、死んでしまえばすぐに肉は落ちるものだ。
    討ち死にした者は血も多く出るだろうから、病死した者とは違ってすぐさま身が細り、結びついていた帯も保てなくなって下帯が落ちてしまう。
    それ故、巧者なる者は下帯の結び目と前の方とに緒を着け肩にかけ、或いは前の垂れ端に緒をつけて首へかけ、もっこふんどしとして用いたものだ。
    これは死後に下帯が抜けて無様な姿を晒さぬようにという用心なのだよ」

    さすがは越中褌を考案した褌博士・細川忠興。
    医者の素朴な疑問に答えてくれただけではなく、こうすれば下帯は抜けないよ!という対処法まで伝授してくれるとは、戦国時代屈指のインテリの名は伊達じゃないということでしょうか。
    忠興と言えば「ああガラシャの旦那ね」とか「ガラシャを見たってだけで庭師を手討ちにした人でしょ」とか言われがちですが、こういった他の武将とは一味違った文化人・風流人な面ももっともっと知られてほしいですね。

    文:ひなた