戦国コラム第三十三席 黒塚は蒲生領?伊達領?「境界線争いに見事勝利した蒲生氏郷の言い分」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第三十三席 黒塚は蒲生領?伊達領?「境界線争いに見事勝利した蒲生氏郷の言い分」

  • 蒲生氏郷といえば戦場へ出ればどの合戦でも自らが先陣をきる勇猛果敢な戦いぶりをみせ、他家の奉公が叶わなくなった家臣を召抱えて適材適所にあわせた仕事を任せるなど人使いも上手く、松阪や会津では出身の日野から商人を呼び寄せて街づくりの発展につとめ、また千利休の高弟として名高い利休七哲の筆頭に挙げられるなどまさに文武両道の武士です。
    なんでしょうこのパーフェクト人間。氏郷が会津120万石の大封を得たのは、その器量を恐れた秀吉が都から遠い場所へ封じ込めたという説もありますが、そりゃこんな完璧人間が側にいたら秀吉も警戒するってもんですよ。
    ちなみに個人的には新参の家臣に「今日の戦では銀の鯰尾の兜をつけた若武者が先陣を切ってるから、お前も彼に負けないように励め」と声をかけたら、戦場で活躍している鯰尾の兜をつけた武士は蒲生氏郷本人でした!!というエピソードが大好きです。
    あと、武功のあった家臣には氏郷自ら風呂を焚いてあげたり、会津120万石を与えられたから家臣の知行も引き上げてあげようとして五千石が相当な家臣には一万石、一万石が相当な家臣には二万石や三万石など割り振ったもんだから氏郷の取り分である蔵入地がなくなった上に120万石では足りなくなったなんてエピソードも家臣を大事にする氏郷の人柄をよく表していて好きですね。

    そんな氏郷ですが、会津へ移封になってからほとほと手を焼いていることがありました。
    それはお隣の伊達さん家の政宗くん。いつの時代もご近所トラブルというのは絶えないものですが、政宗の場合は蒲生領の大崎(旧伊達領)の農民を扇動して一揆を起こしたり、こっそりと氏郷の元へ刺客を送るなどやりたい放題。
    氏郷が会津へ封じられたのもヤンチャな政宗を牽制する役目もあったとはいえ、とんでもない役目を押し付けられたもんです。
    大崎・葛西一揆ではさすがに腹に据えかねて秀吉に訴えるものの、用意周到な政宗は一揆扇動の証拠として提出された文書の花押である鶺鴒に目がないという上手い言い訳を使って不問にされています。
    これは温厚な氏郷でもさすがにストレスが溜まる一方でしょう。
    四十歳という若さで急死した氏郷には毒殺説などもありますが、案外こういうことが積もり積もったストレスが原因だったんじゃ…なんて思ってしまいますよね。

    そんなある日、困ったお隣さんがまたもや氏郷に絡んできたことがありました。
    それは陸奥の安達ヶ原は蒲生領だが、阿武隈川を挟んだ向かいにある黒塚は伊達領だと主張してきたのです。
    現在でも都道府県の県境が明確に決まっていない箇所がかなりあるというのに、400年前の「大体ここらへんから○○の領地」という感じ。肥後の小西行長と加藤清正なんかも境界線争いをしていたそうなので当時としてはよくある揉め事だったんでしょうか。

    しかしお互いに黒塚は自分の領地だと言って譲らない二人。
    話は平行線を辿っていましたが、ここで氏郷は黒塚は蒲生領である証拠を出してきます。

    「みちのくの 安達ヶ原の黒塚に 鬼こもれりと いふはまことか」

    これは『拾遺集』に載っている平兼盛の歌。
    古くからある歌を引用することによって「ほらみろ。平兼盛だって『安達ヶ原の黒塚』と言っているじゃないか」と主張したんですね。これにはさすがの政宗も反論できず、無事に黒塚は蒲生領と認められたのでした。
    うーん、さすが氏郷。主張の仕方も知的でスマートさを感じます。

    文:ひなた