戦国コラム第三十一席 大坂へ向けて出発!「紀州九度山を脱した真田幸村の策」

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第三十一席 大坂へ向けて出発!「紀州九度山を脱した真田幸村の策」

  • 真田幸村と言えば江戸時代から講談などでその人気は高く、戦国武将の中でもトップクラスの人気を誇る武将です。
    しかし天下分け目の関ヶ原の戦いでは、幸村の兄・信幸は徳川家康率いる東軍へ、幸村は妻が石田三成の親友・大谷吉継の娘という関係から父の昌幸とともに西軍へと味方しました。
    結果はご存知の通り、家康側の東軍が勝利。
    その後の昌幸・幸村親子の処遇はコラム9席で詳しくお伝えしていますが、信幸と、信幸の岳父・本多忠勝の必死の助命嘆願により処刑だけは免れ、紀州高野山の麓にある九度山に蟄居という処分になりました。

    配流先の九度山では善名称院(通称:真田庵)で暮らしていましたが、昌幸は生活水準を大名時代と同じレベルに保っていたため借金が多く、信之(関ヶ原後に改名)や、元家臣たちからの仕送り、そして九度山へついてきた従者たちの金策に頼る日々でした。
    昌幸は三男宛に「借金が重なって大変苦しい。至急20両を届けてほしい。無理なら10枚、せめて5枚」と言った生活費を無心する手紙を送っていたり、幸村も家臣に宛てて焼酎を送ってくださいと頼む手紙を送っています。
    余談ですがこの「焼酎送ってください」という手紙を以前博物館で見たことがあるのですが、

    『この壺に焼酎をつめてくださいますようお願いいたします。
    今、お手持ちがなければ、この次でもよろしいですからお頼み申します。
    むずかしいと思いますが、壺の口をよくしめて、その上壺の口を紙で目張りをして下さるようお願いいたします。
    御都合次第で取りに伺います。
    (中略)
    どうか壺二個の焼酎のこと、よろしくお願いします。この外にも余分にあったら、いただきたいと思います』

    と言った内容で、そんなにも焼酎が飲みたかったのか…と、幸村の執念が感じられる手紙でした。好きだったのかな焼酎。
    八丈島に流罪になった宇喜多秀家もそうですけど、こういう生の声が感じられる手紙は配流先での生活がどれほど苦しかったかがよくわかりますね。

    しかし共に苦労をわかちあってきた父・昌幸も1611年に病没してしまいます。享年64歳。
    昌幸についてきていた従者たちの大半は引き上げ、残された幸村は苦しい生活を続けていたせいで病がちになり、髪の色も落ちて歯も抜けてくるありさま。
    まだ40半ばの男盛りだというのにこのまま父のように配流先で朽ち果てるのかと思っていた幸村に、待ち続けていた知らせが飛び込んできます。
    それは徳川家との対立が深刻化してきた豊臣家家臣の大野治長から、来るべき豊臣と徳川の戦に備えて大坂城へ入城してくれという要請でした。

    このまま紀州の山奥で人生を終えてしまうのかと思っていた幸村は治長の申し出を受け入れ、幸村には支度金として金二百両と銀三十貫が贈られ、恩賞としては五十万石が約束されました。

    しかし問題なのは九度山から大坂まで、どうやって行くかということです。

    昌幸はすでに病没しているとはいえ、徳川家を過去に二度も翻弄したことのある真田は要注意人物No1
    当然徳川家も幸村の動向には気を付けているでしょうし、紀州九度山を領している浅野長晟も警戒して真田庵周辺の百姓を集めて「世情が騒がしいときだから、真田幸村が大坂へ向かおうとするかもしれない。充分に気をつけるように」と申し付けていました。

    そんな徳川方の動きを察知した幸村は、ここで一計を案じます。
    それは「日ごろお世話になっているお礼がしたい」と近隣の庄屋・年寄・百姓らを招いて宴会を催すというもの。
    何百人もの村人が幸村の屋敷に集まり、その集まった全員に分け隔てなく酒を次々と勧め、村人全員が酔いつぶれたのを見計らい、庄屋などが乗ってきた馬を拝借して九度山を脱出。無事大坂へと向かったのです。
    もちろん村人が目覚めたときには屋敷はもぬけの殻。今更追いかけても間に合うはずがないと、仕方なく村人たちは事の顛末を浅野長晟へ報告しました。
    どんな叱責を受けるかとびくびくしていた村人ですが、報告を聞いた長晟は「真田ほどの者を百姓風情に止めろと命じるほうが間違っていた」と納得し、村人たちにお咎めはなにもなかったそうです。

    幸村が九度山を脱出して大坂へ向かうこの逸話は有名ですが、上記パターンは『名将言行録』『真田系譜』などに載っています。
    ですが『翁物語』という本には、同じ逸話でも少し違ったパターンで語られているのです。

    それによると幸村が酒宴に村人を招くところまでは同じですが、村人を酔い潰して騙すのではなく正直に豊臣家から誘いがきていることを、包み隠さずに話してしまいます。
    長く苦しい蟄居生活の間、九度山の村人たちは真田親子を暖かく迎え入れ、そして時には支えてくれました。そんな九度山の人々に、幸村は言葉では言い尽くせない恩を感じていたのです。
    しかし豊臣家の誘いを受けて大坂へ行けば、幸村を逃がしたと村人たちが咎めを受けて迷惑がかかってしまう。
    それを思うと大坂へ行きたくても行きづらい。そう素直な心境を語ります。

    そんな幸村の葛藤に村人たちは「私たちは酒を飲んで酔いつぶれていたことにすれば罪には問われないでしょう。どうか私たちに構わず大坂へ行ってください」と、幸村に大坂城入城を進めました。
    村人たちも長年九度山に蟄居していた幸村と付き合っているうちに、その人柄に触れ、例え自分たちに不利なことになってもこの人を応援してあげたいという心境になっていたのではないでしょうか。
    そんなふうに村人たちに後押しされて九度山を脱出して大坂へと向かった幸村ですが、上記エピソードにもあるように紀州藩主浅野長晟は村人たちを咎めず、また追っ手も出さなかったそうです。
    長晟の父は豊臣秀吉を昔から支えてきた豊臣恩顧大名・浅野長政。世の流れで徳川家に忠誠を誓っている身とはいえ、長晟も心情的には豊臣に同情心を持っていたから幸村を見逃したのかなと、個人的には感じます。

    その後の幸村の活躍はご存知のとおり、大坂の陣では島津藩士に「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」と絶賛されるほど壮絶な戦いぶりを見せました。
    九度山を出るときに多くの人の協力がなければ、もしかしたら大坂の陣での幸村の活躍はなかったのかもしれないと思うと、歴史の面白さをひしひしと感じます。

    文:ひなた