戦国コラム第三十席 もしも実父と養父が敵味方になれば?「高橋紹運が息子・宗茂に贈った太刀」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第三十席 もしも実父と養父が敵味方になれば?「高橋紹運が息子・宗茂に贈った太刀」

  • コラム十二席では大友宗麟の重臣・立花道雪を取り上げましたが、この道雪と同じく、衰退する大友家において最期まで主家を見限らず忠節を尽くした武将がいました。
    その武将というのが戸次鑑連(立花道雪)、臼杵鑑速と共に大友家の三老に数えられる高橋鑑種(あきたね)。
    道雪と同じく出家後の「紹運」という号でよく知られているので、以後は「紹運」表記で通させていただきます。

    高橋紹運と立花道雪は年は親子ほども離れていましたが、とても親しく付き合い、そして共に大友家を最後まで支えていこうと誓い合った仲でした。
    そんなふうになんでも気安く言い合える親密な二人でしたが、ある日道雪はとんでもないことを言い出します。

    それは紹運の長男・統虎(後の立花宗茂。以後は「宗茂」表記で通します。)を婿養子にくれないか、と言うこと。

    なぜなら道雪の子どもは娘の誾千代しかおらず、かねてから将来を見込んでいた宗茂を誾千代の婿に迎えて立花家を継がせたいと思っていたのです。

  • 紹運には宗茂の他に次男・直次がいたので、高橋家は直次に継がせて宗茂は立花にちょーだいよ!ってことですね。
    だったら高橋家嫡男の宗茂じゃなく直次を婿養子に迎えればよさそうなものですが、道雪はどうしても宗茂に立花家を継いでほしかったようです。宗麟のわがままには怒るくせに、意外と道雪もわがままなこと言ってますね。
    もちろん紹運は拒否しました。いくら父のように慕う道雪の頼みであっても、宗茂は大切な高橋家の嫡男。
    自分の家の大事な跡継ぎをほいほいよそにやるわけにはいきません。
    しかし尊敬している道雪の必死の説得もあり、立花家・高橋家が今後も大友家を支えていくためにももっと絆を強固にしておいたほうがいいということもあり、宗茂は婿養子として立花家へ行くことになりました。
    家の存続を大切にする当時において、嫡男を養子に出すというのは異例中の異例です。これだけでも紹運と道雪の結びつきの強さがよくわかりますね。

    そして出発直前、紹運は息子・宗茂を呼びだして別れの盃を交わしながらこう言いました。

    「以後はわしのことを親とは夢にも思うでない。父と息子の縁は今日限りと思え。
    そして今後もしも当家と立花家が敵味方になったときは、お前は必ず道雪殿の先鋒になってわしを討ち取るのだ。
    道雪殿は未練なことが大嫌いな御方だから、決して未練な所業があってはいかん。もしお前が未練卑怯な振る舞いをして道雪殿から離別を申し渡されたときは、決してこの城には帰ってこず、この刀で潔く自害するように」

    そう言うと紹運は備前長船の太刀を宗茂に手渡したのです。
    かなり手厳しい言葉のように思えますが、宗茂も幼いころから紹運の跡継ぎとして育ってきたのを急に他家に養子にやると言われて戸惑っていたでしょうし、「お前はもう高橋家嫡男ではなく立花家の次期当主だ」ということを自覚させ、未練を断ち切ってやりたいという親心だったのかもしれません。

    その後、島津家と大友家の争いが激化し、紹運の盟友・立花道雪は天正13年に北野城で病死。
    紹運は道雪の死に深く悲しみ、その様子は『九州治乱記』では、
    「盲者の杖を失い、暗夜に灯の消えたる心地なれ、中にも紹運の嘆き大形ならず、生きては行を同じくし、死しては屍を列ねんと思いしことの空しく、心中いかばかりか思われむ」
    と記されるほど大きなものでした。
    しかし道雪を失っても紹運の大友家への忠節は変わらず、天正14年にはついに島津軍は紹運の籠る岩屋城へと迫ってきます。
    島津の軍勢3万5千。対する岩屋城へ籠った兵数は『九州軍記』『九州治乱記』『西国盛衰記』『陰徳太平記』『紹運記』『筑前国続風土記』など各書によりばらつきがあるものの、大体が600から700名ほどしかいませんでした。
    勝機のまったくないこの戦いで、紹運の武名を惜しんだ島津側からの降伏勧告も跳ね除けて篭城を続けます。
    紹運自ら馬に乗って突撃し、大太刀で17人を討ち取り、城内では傷を負ったものには自ら気付け薬を含ませ、死者を懇ろに弔いました。
    そんな紹運の奮戦も圧倒的な兵力差には敵わず、ついに紹運も自害、紹運率いる軍勢は一兵たりとも逃亡したり敵に寝返るものはおらず、全員が岩屋城で壮絶な討ち死にを遂げました。
    岩屋城兵全員の討ち死にを知った寄せ手の大将・島津忠長は地面に突っ伏し、
    「たぐい稀なる勇将を殺してしまった。この人と友であったなら、どれほど心涼しかったであろうか。弓矢を取る身ほど恨めしいものはない」
    と涙を流し、そして遺体を丁重に弔ったそうです。
    これほどまでに敵将に惜しまれるなんて、どれほど紹運が心身ともに優れた武将であったかが伺われます。

    しかし紹運が文字どおり命をかけて稼いだ時間のおかげで、主君・大友宗麟は大坂へ赴き、秀吉による島津への九州征伐が開始されました。
    これにより道雪・紹運が最期まで守った大友家は島津の猛攻から逃れることができたのです。

    大友家の二柱・立花道雪と高橋紹運の生き様は立花宗茂へと受け継がれ、偉大な二人の父の名に恥じない鎮西一の武将として歴史に名を残します。
    父の言葉を、そしてその壮絶な生き様を決して忘れないように、宗茂の側には在りし日に父・紹運から渡された長光の太刀が生涯離れずにありました。
    その太刀は現在では国の重要文化財として、 福岡県柳川市にある立花家別邸の㈱御花様が所蔵されています。

    文:ひなた