第二十七席 娘婿はうつけ者?「織田信長の才能を見抜いた斎藤道三の眼力!」
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「美濃の蝮(マムシ)」と呼ばれ、戦国時代を代表する梟雄の一人・斎藤道三。 若い頃は 京都日連宗の妙覚寺で僧侶として過ごし、その後、美濃に渡って油売りの商人となり、長井氏・土岐氏に仕えたあとに主君を追放して自らが美濃国主になったという典型的な下克上を成し遂げた傑物です。
道三は尾張の織田家とも敵対していましたが、険悪な関係を改善するために娘の帰蝶を織田信長の元へ嫁がせました。これ以後、娘の帰蝶は「美濃から来た姫」ということで「濃姫」と呼ばれます。
しかし可愛い帰蝶を嫁がせたものの、娘婿の信長は尾張では評判の「おおうつけ」者。
気が気ではない道三は信長の器量を見極めるため、天文18年(異説には22年)に美濃と尾張の国境沿いにある聖徳寺で信長と会見をすることに決めました。 もし本当に信長が評判通りの「おおうつけ」なら、この期に尾張も奪い取ってやろう…なんてことを、道三なら考えていたのかもしれません。それを見極めるための重要な会見です。 ちなみにこのとき信長は16歳。現代でも少年少女が一番やんちゃに走りがちなお年頃ですね。
信長のことを詳しく記した太田牛一の『信長公記』には、このときの様子が詳しく書かれています。 それによると道三は会見予定時刻より早くに聖徳寺に着き、寺近くの町屋に隠れて信長一行が来るのを待ち構えました。 道三の目の届いていない(と思っている)素の信長はどんなものか見ようという魂胆だったのです。
しかし、しばらくして現れた信長の姿は、髪を茶筅まげに結い、片肌を脱いで腰には荒縄を何重にも巻き、火打石や瓢箪を腰から幾つもぶら下げているという異様な風体。噂に違わないうつけスタイルでした。信長・KING・OF・UTSUKE。 この信長の姿を見て道三は「…駄目だこいつ…早くなんとかしないと…」と、思ったとか思わなかったとか。 しかしそんな信長を侮る気持ちが生まれかけていた道三は、その後に続く織田の隊列に思わず目を疑いました。
なんと信長のあとに続く槍隊、弓隊、鉄砲隊は、三間半という美濃衆の槍より長い朱槍を500本、弓・鉄砲を各500挺装備しているという見事さ。この装備は道三配下の家来衆より数段優れています。 特に鉄砲はこの時期、その威力が次第に認知されつつありましたが値段がとにかくべらぼうに高く、鉄砲隊一部隊編成しようと思うと、そのためにかかる費用は莫大なものだったのです。それをたった16歳の信長が500挺も揃えて見せていることに道三は驚くと同時に感心しました。 あわよくばこの機会に尾張を奪い取ってやろうという企みも、500挺の鉄砲を前にしてはさすがの道三もどうしようもありません。 もしかすると信長はそれを見越して、わざと織田家の装備を見せ付けるように500挺の鉄砲隊を連れてきたのかもしれませんね。
その後道三は聖徳寺に戻り、約束の刻限通りに会見が始まりました。 そのときの信長は来るときのうつけスタイルではなく、折り目正しい正装でやってきて、道三を二度驚かせたのです。会見の間も信長は礼式にかなった挙措を見せつけ、文句のつけようがありません。 短い会見でしたが娘婿の器量に満足した道三は美濃に帰り、その道中、家臣の猪子兵介が「やはり信長は評判どおりのおおうつけでしたな」と言うと、道三は首を横に振ってこう言いました。
されば無念なることに候 山城が子ども、たはけが門外に馬を繋ぐべきこと、案の内にて候 (残念だが、私の子供たちはあのたわけの門外に馬を繋いで臣従することになるであろう)
自力で美濃一国を奪い取った梟雄・斎藤道三は、信長の天才的な資質を見抜いていたのです。 その後、道三は息子・義龍と対立して1556年(弘治2年)に攻め滅ぼされますが、戦死する前日に遺言状を残し、その中には美濃国を娘婿の信長に譲ることが記されていました。道三はそこまで信長の将来性を買っていたのです。
文:ひなた


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