戦国コラム第二十四席 出雲の謀将の意外な一面!?「尼子経久は天性○○○○の人?」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第二十四席 出雲の謀将の意外な一面!?「尼子経久は天性○○○○の人?」

  • 戦国武将の中には合戦だけではなく、優れた智謀・謀略によって領土を拡大した人が何人かいます。
    有名なところで言えば戦国時代の先駆けである関東の北条早雲、以前コラム第八席でもその謀略の数々をお話しした備前の宇喜多直家、安芸の国人から一代で中国地方全土に大領土を築いた毛利元就など等。
    そして備前の宇喜多直家、安芸の毛利元就と並んで中国地方にはもう一人群を抜いて謀略に長けた武将がいました。

    その武将が今回のコラムの主役。
    宇喜多直家、毛利元就とともに中国の三大謀将と称された尼子経久です。

    尼子経久は謀略や奇襲を得意とし、北条早雲と同じ時期に活躍した戦国時代の先駆け的人物、下克上の典型と言われています(ただし最近の研究では経久が富田城に復帰したのは幕府や京極氏の了解の上という説が主流で、経久がしたことは下克上ではないと言われています)が、その人柄は意外にも「天性無欲正直」と言われるような人でした。

    策略・策謀を繰り返して領土を拡大した人が「天性無欲正直」とはこれ如何に?
    「天性物欲嘘吐き」の間違いじゃないの?
    と思われそうですが、いえいえ経久は「天性無欲正直」な人だったんですよ。
    というのも経久は若い頃から苦労に苦労を重ね、世間の荒波にこれでもかってほどざっぷんさっぷん揉まれた人だったので、他人に対しては特別仁愛が深い人柄だったのです。

    『雲陽軍実記』によると、

    「経久は柴を刈る下男や海の藻を取る海女に至るまで情けをかけ、また女子供にも親しみを見せたので彼らもよく懐いた。
    飢えている者には食べ物を与え、寒くて凍えている者には服を贈り、まして経久のために命を的にして戦っている武士たちは雑兵に至るまで手負いの者の疵を吸い、薬を与え、討ち死にすればその家族を寵愛し、職禄を増やし、追善誦経まで心を配るような人だったので万人が経久を信頼し、その徳を慕い、武士は経久公の命に代わることを本意とす。」

    と記されています。
    これだけでも経久の人柄がどんなものだったのかひしひし伝わってきますが、以前山中鹿之助のコラムでもちょこっと出てきた『雲陽軍実記』は尼子家臣の河本大八隆政が記したとされる書。尼子家臣なら経久のことを悪くは書かないんじゃないの?と思われるかもしれません。
    なのでもういっちょ『陰徳太平記』から経久についての記述を引っ張ってみます。
    これも山中鹿之助のときに説明しましたが、『陰徳太平記』は成立年は遅いものの毛利側の人間が書いたものなので、通常は毛利家にとって良いことが書かれる場合が多いのです。
    しかしそんな『陰徳太平記』の中でも、尼子経久はこんなふうに書かれていました。

    「智勇全備するのみならず、露に濡れ風に吹かれながら野に伏す等の艱難辛苦を経て数国の大将となった人なので、諸士百姓に至るまでそれぞれに応じた身の上をよく考えていた。
    民を使うに時をもって、臣を見るに礼をもって、賢を尊ぶに爵をもって、士を招くに禄をもってするなど個々の能力や資質に応じて遇していたので、経久の元には人が次々と集まってきた。」

    尼子と争った毛利側の書にも、経久が家臣一人一人に向き合っていた武将だったことが書かれてたんですね。
    経久のように策略や謀略を巡らせて領土を拡大した謀将というのはあまり評価がよろしくなかったりするんですけど、こうして見てみると家臣や民を大事にする人が多い気がします。
    備前の謀将・宇喜多直家も家臣には慕われていたので、敵対した相手からはボロクソに言われてますけど、家中の結束は固く直家存命時は裏切りや寝返りなどは一切出ていませんし。

    そんなわけで、最後に尼子経久の無欲正直ぶりを一番よく表している有名な逸話を紹介します。
    これは『塵塚物語』という経久の没後10年後くらいに書かれた説話集で、経久についてはこんな逸話が記されていました。

    経久は物欲というものを忘れて生まれてきたような人だったので、家臣が経久の持ち物を「これは良い物ですね」と褒めると、すぐに「そうかそうか。そんなに気に入ったのなら、お前にそれをくれてやろう。持って帰るといい。」と家臣に与えてしまう癖があったのです。

  • それがどんな物でも褒められれば、

    「褒められた!」

    「ということはこれを気にいったんだ!」

    「だったらこれをあげれば家臣は喜ぶだろう!」

    「持って帰りなさい!」

    という四段論法になってしまうので、経久は墨蹟・衣服・太刀・刀・馬・鞍に至るまでなんでもかんでも褒めてくれた家臣にあげちゃってたのです。さすが天性無欲正直の人。
    これ以外にも年末年始には持っている衣服を家臣にあげまくったので、経久は冬の寒い時期だというのに薄綿の小袖を一枚だけ着ていたという話も残っています。さすが天性無欲正直の人。
    (二回目)

    ところが経久は物に頓着しない性質だったので良いのですが、むしろ貰ってしまった家臣のほうが困ってしまいました。
    良い物なので貰うことは正直嬉しかったかもしれませんが、経久の場合はその度が過ぎすぎているので、「これ以上経久様の持ち物を褒めれば、経久様の持ち物がすっからかんになってしまう!」という危機感があったのでしょう。
    なので家臣たちは気を使い「もう経久様の持ち物を褒めることはやめておこう。」という取り決めが出来たのです。

    この時点で私なんかは「すごいなあ」と感心しました。
    だって経久は中国十一ヶ国の太守なんですから、そりゃ持ってる物も良い物でしょう。
    それを奪い取ったり盗んだりするわけじゃなく褒めるたけでぽんぽんとくれるなら、家臣に一人でも欲張りな人間がいたら「搾り取れるだけ搾り取ってやる!」となってもおかしくないのに、家臣一同が経久のことを思って褒めることを自重していたなんて、それだけ経久が家臣に慕われていたということなんじゃないですかね。

    話が逸れましたが、とにかく家臣一同が取り決めを守って経久の持ち物を褒めなくなったおかげで、しばらくの間は平穏無事に日々が過ぎていきました。
    しかし、ある日、事件が起きてしまいます。
    とある客人が経久と談笑しているときに庭にあった立派な松の木が目に入り、「いやいや、なんと立派な松でしょう」と褒めてしまったのです。
    経久のプレゼント癖は家臣だけではなく尼子家以外の人にも知られていましたが、服や馬、太刀ならともかく、今回褒めたのは庭にどっかりと根を生やして伸び伸びと枝を伸ばしている立派な松の木。
    さすがに経久もこれはプレゼントしようがないから褒めても大丈夫だろうと思ったのです。

    けれど相手は中国三大謀将にまで数えられた尼子経久。
    謀将とは到底人が思いつかないようなことを考えるからこそ謀将なのです。普通に考えたことをそのままするようでは謀将とは言えません。
    そして、このときも経久は普通では考え付かないようなことをやってのけました。
    なんと翌日家臣を呼び出すと、「あの庭の松を掘り起こし、そのままの姿で昨日の客人にお贈りしなさい」と言い出したのです。
    まさかの巨大松プレゼント発言に家臣もびっくりしましたが、しかし主君の命令は命令なので「無理です」とも言えず、とりあえず人を集めて松を掘り起こしてみました。
    松を根から掘り起こすことは時間と人数さえ揃えばそれほど難しいことではありません。
    しかし問題はそのあとです。
    なにせこの松は10間(18メートル)もある巨大な老松。手押し車に乗せることも簡単ではなく、もし無事に乗せられたとしても10間もある松を通せるような通路が城内にはなかったのです。
    しかたがなく家臣は経久に「これこれこういう理由で松を贈るのは無理ですよ」と進言してみました。普通ならこれで諦めます。まあ普通の人は、松を丸々1本贈ろうなんて考えないんですけど。
    でも相手は中国三大謀将にまで数えられた尼子経久。謀将とは到底人が(以下略)

    なんと経久は家臣の進言を聞いて少し考えてから、
    「ならば仕方がない。その松を細かく切って贈りなさい。」と言ったのです。

    そんなわけで10間もある立派な松の木は、元の原型も留めないくらい細かく切られて客人にプレゼントされたのでした。多分、薪一年分くらいはあったんじゃないでしょうか。
    でも立派な松の木を褒めたのに細かく切られたんじゃ意味ないような気がしますけど。
    もちろんこの話はあっと言う間に伝わって、話を聞いた人は口々に「なんと馬鹿なことをしたものだ」と経久を笑いました。
    しかし世間で笑いものになっていることを聞いても経久は涼しい顔で、「私は松の木を切ったのではない。己の欲を切ったまでだ。」と言い放ったそうです。
    『塵塚物語』ではこの逸話の最後に経久のことを「まったく不思議としか形容できない人物である」と評しています。

    確かに不思議としかいえないですけど、でも私は個人的にこの逸話が大好きで、そんな経久に不思議な人間的魅力を感じてしまうのでした。

    文:ひなた