戦国コラム第二十二席 生涯愛用した三成からの贈り物「結城秀康と石田正宗」

戦国コラム-サムライ茶屋-

第二十二席 生涯愛用した三成からの贈り物「結城秀康と石田正宗」

  • 約300年続いた江戸時代。徳川幕府が支配したその長い時代において、始祖・徳川家康と敵対したことから、石田三成ほど不当に貶められてきた武将は他にいないでしょう。
    近年こそ三成の再評価が進み、見直しが行われていますが、江戸時代において三成を褒めている文献は皆無と言ってよく、唯一例外的に水戸黄門こと水戸光圀公が三成を擁護しているに過ぎません。
    しかし水戸光圀よりもっと昔、まだ家康も健在だった頃に三成への好意を貫いた徳川縁者がたった一人だけいたのをご存知でしょうか?

    それが家康の次男であり、二代目将軍秀忠の兄・結城秀康です。

    秀康は徳川家重臣の本多重次を養育役として育ちましたが、その幼少期は実父・家康に嫌われ、対面することも叶いませんでした。
    ようやく対面を果たすことができたのも、兄・信康が秀康の存在を知って不憫に思い、父・家康との対面を無理に果たさせたおかげだそうです。
    しかし親子の対面を果たしたあとも家康からの冷遇は続き、信康亡きあと次男である秀康は徳川家後継者候補の筆頭であるにも関わらず、1584年(天正12 年)の小牧・長久手の戦い後、羽柴秀吉との和睦の条件として養子という名の人質に出されてしまいました。
    しかしそんな実父からの扱いとは逆に、「人たらしの名人」と言われた秀吉の秀康に対する接し方は違いました。
    秀吉は養子という名目でありながら、実際のところは人質に過ぎない秀康をとても可愛がったそうです。
    あるとき佐々成政が秀康の武勇を褒めて「さすがは徳川殿の御子ですね」と言うと、秀吉は「それは違う。徳川殿の子だからではなく、わしの養子だからこの秀吉に似ているのだ」と言い返したという話からも、実父・家康とは違い、血のつながりのない秀吉のほうが親子としての情を深くかけてくれていたことがよくわかります。

    秀吉の元に養子へ行ってから五年後の1589年(天正17年)には秀吉に実子・鶴丸が誕生したことから、翌年には秀康は下総の大名・結城氏と婚姻して家督を継ぎ、名前を「結城秀康」と改めました。

    そして時は流れて、慶長4年の3月にある事件が起こりました。
    それは秀吉も亡くなり、後を追うように前田利家も病没したのを契機に、石田三成に恨みを持つ加藤清正や 福島正則ら武断派武将七人が三成を襲撃した事件です。
    このとき三成は家康に庇護を求めることで窮地を脱したものの、その代わり奉行の任を解かれて、領地・近江佐和山への蟄居を余儀なくされます。
    そのとき佐和山までの道中で再び襲撃されないよう、家康は三成とも親しかった秀康に道中の警護を命じました。
    秀康は必ず三成を無事佐和山まで送り届けるため、三成の家臣を前後半分ずつに分けて配置し、秀康自身の家臣には馬廻りを包むように警護させました。
    そして「なにかあったときには力を尽くして戦い、万が一それも叶わなければ私と貴方が馬上で差し違いましょう」と言い、さらに家臣たちには胴丸などを着込ませ、鉄砲の五挺に一挺は火縄を付けたままというまさに実戦さながらの物々しさで三成の警護を行ったのです。

    さすがに武断派の武将たちも、家康の実子であり、武勇も名高い秀康が警護をしては手が出せず、道中は何事もなく無事に進み、そして醍醐・山科あたりまで来ると三成の家臣たちも大勢佐和山から迎えに来るようになりました。
    そこで三成は「もうこの辺りで大丈夫です」と警護を辞退しましたが、しかし三成の身を案じた秀康は更に警護を続けました。
    自分を思ってくれる秀康の気持ちに三成は感激しましたが、すでに領地にも近く、石田家の家臣たちも多くいる中でなおも秀康に警護してもらうわけにはいかないと頑なにこれ以上の警護を固辞し、秀康もそうまで言われてはこれ以上無理強いできずに別れることになりました。
    三成はここまで心を尽くしてくれた秀康へのお礼として腰に帯びていた太閤秀吉から(一説には宇喜多秀家から)拝領した正宗の刀で、槍や刀傷が2~3箇所あったため、「切込正宗」とも呼ばれる名刀を秀康へと贈り、秀康も喜んで受け取りました。
    佐和山に帰った三成は家臣に「秀康殿は雄才思慮があり、一言一句おろそかにはしない。まだ年齢が三十にも達していないのに進退や動静の推測が外れることもない。誠に並ぶ者がいない名将だ。」と語ったと言います。
    後に秀康の父・家康を相手に歴史上でも稀な大合戦を行うとはいえ、息子の秀康とはお互いに認め合った間柄だったんですね。

    関ヶ原の戦いが終わり、三成は秀康の父・家康に敗れ、刑死してしまいましたが、秀康はその後も周囲をはばかることなく三成から贈られた正宗を「石田正宗」と名付けて生涯愛用したそうです。

    秀康の人生は徳川・豊臣に翻弄された数奇なものでしたが、そのおかげで結城秀康という人物は両家と縁が深い唯一の人物であり、またその器量や実直な人柄から豊臣恩顧大名にも好かれ、徳川譜代家臣からも二代目将軍となった秀忠より後継者として相応しいという声が多いほど人望がありました。
    そして一説によると「秀頼は自分の弟だ。もし幕府が豊臣を攻めるなら、私は大坂へ入城して秀頼を助ける」とまで言い切るほど豊臣家への忠義に厚かったそうです。
    歴史に「もし」はないとはいえ、もしも秀康が長生きしていれば…と、考えずにはいられない人物だったと思います。

    文:ひなた