第十七席 犯人は誰だ?「容疑者・大谷刑部吉継!?」
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大谷吉継といえば当時は不治の病とされていたハンセン病を患い、関ヶ原の戦いでは病身をおして親友・石田三成側に加担。 そして合戦の真っ最中に西軍を裏切った小早川秀秋を相手に2000の兵で押し返すなど奮戦したものの、脇坂・赤座・朽木・小川隊も寝返ったことにより大谷隊は壊滅、家臣の湯浅五助の介錯で自刃しました。 吉継ははじめ三成に勝ち目はないと挙兵を思いとどまらせようとしましたが、どんなに説得しても三成の決意は固いことを知ると、死を覚悟で三成に味方することを決めました。 多くの大名が出世や家を保つことに必死になっている中、潔く友情に殉じた義将として今なお人気の高い人物です。
そしてその評価は後世だけではなく、当時から豊臣秀吉に「百万の軍を率いさせてみたい」と言われ、名将言行録では「吉隆(吉継)、汎く衆を愛し、智勇を兼ね、能く邪正を弁ず。世人称して賢人と言ひしとぞ。」と称されるなど、その人徳の高さは当時から人々の間ではよく知られていたようです。 関ヶ原直前に起こった宇喜多家のお家騒動でも、秀家は吉継に仲介役を頼んでますしね。吉継は誰からも慕われ、頼られる人物だったのでしょう。
しかしこんなふうに当時から現代に至るまで高評価を受けている大谷吉継が、実はとある事件に関与しているのではないかと容疑者になったことがありました。
それは天正14年に大坂で起こった「千人斬り事件」。 名前からして物騒な事件ですが、この事件が記されているのは本願寺11世法主顕如の右筆・宇野主水が書いた『宇野主水日記』です。 その内容はというと、
「このごろ千人斬りと称して、大坂の町中で人夫が何人も殺される事件が起きている。 それは大谷紀之助という小姓が悪瘡を患い、千人殺してその血をねぶれば病は完治すると言われているので、そのような事件を起こしているのだという噂がある。」
というものでした。 この日記の中に出てくる「大谷紀之助」というのは大谷吉継の通称です。 悪瘡を患いというのは、吉継が今で言うハンセン病を患ったことを指しています。 吉継が発病したのがいつ頃なのかはわかりませんが、こんなふうに大坂城下で噂がたつくらいなので、この頃にはすでに発病して周囲もそのことをよく知っていたのではないでしょうか。 ハンセン病は今でこそ感染経路や治療法もわかっていますし、また感染力が非常に弱く、感染したとしても発症するには3年~15年以上もかかり、場合によっては発症しないことも多いことなどが知られています。 しかしそんな知識や治療法のなかった戦国時代では、原因不明の不治の病と言われ、指や耳、鼻の欠損や失明という症状を引き起こし、欠損部が顔や手足などわかりやすいところに集中するこの病の発病者は差別の対象となっていたのです。 そのため「千人殺して血をねぶれば病は完治する」なんて、普通に考えれば有り得ない噂がまことしやかに流れたのですね。
そんなわけで大坂の町中に知れ渡ったこの噂は、すぐに町奉行を通して秀吉の耳にも届きました。
しかし秀吉は物騒な事件の犯人ではないかという吉継を疑うどころか、そんな噂があると報告しただけの町奉行に対して「そのような噂を間に受けて、大谷刑部(吉継)を疑うなどもってのほかじゃ!!」と大激怒。 危うく町奉行衆は激怒した秀吉に斬られるところでしたが、なんとか回りが取り成したおかげで命だけは助かりました。 けれど「見当違いの報告をした」として、町奉行衆は謹慎処分を受けてしまったのです。 職務を果たして町の噂を報告しただけなのに可哀相な町奉行。結局この千人斬り事件は犯人が捕まったのかよくわかっていません。 一説によると「宇喜多次郎九郎」という人物が「天正14年に大坂で千人斬りと称して殺人を犯していたことが発覚し、捕らえられて処刑された」と言う記録が残っていますが、この宇喜多次郎九郎が何者なのか、次郎九郎が行っていた千人斬りが吉継に容疑がかかった千人斬りと同じなのかは不明です。 まあ、千人斬りなんてそんなしょっちゅう起こるものじゃないので同じだとは思いますけど。
そしてこの千人斬り事件で吉継に容疑がかけられたのは、事件が起こる前年に刑部少輔に任じられるなど秀吉の信頼が厚い吉継を失脚させようと、何者かが千人斬り事件に便乗して仕組んだのではないかとも言われています。 しそうだとしたら濡れ衣もいいところなのですが、例え誰かが仕組んだ陰謀だとしても、失脚するどころか秀吉は毛ほども吉継を疑うことなく、その後も越前敦賀五万石の大名に取り立るなどその信頼の厚さは終生変わることはありませんでした。 吉継がそんな事件を起こすような人間ではないことは、吉継の才能を見抜き、可愛がっていた秀吉は良く知っていたんですね。
文:ひなた


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