第二席 犬猿の仲!? 「小西行長と加藤清正」
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どの時代でも人間関係というのは良好なばかりではありません。 なにかとチクリとした嫌味を言ったり言われたりすることが多い直江兼続と伊達政宗、元主従でありながらめちゃくちゃ仲が悪かった黒田長政と後藤又兵衛、石田三成に至っては武断派七将に兵を挙げて襲撃されているなど、戦国時代の人間関係もなかなか複雑です。 そんな戦国時代不仲ランキングでベスト3に入るんじゃないかというくらい仲が悪かったのが、小西行長と加藤清正。 この二人、犬猿の仲というか水と油というか、とにかく仲が悪い。 まず小西行長は堺で薬業種を扱う豪商の次男として生まれ、秀吉に外交手腕を買われてとんとん拍子に出世していきます。戦で戦功を立てるよりも、交渉や物資の輸送など裏方の仕事のほうが得意でした。父親である小西隆佐の影響により熱心なキリシタンで、また隆佐とともに堺奉行をしていた石田三成とも仲がよかったようです。 一方の加藤清正は、清正の母と秀吉の母が従姉妹という血縁関係で取り立てられ、賤ヶ岳の戦いでは 福島正則らとともに『賤ヶ岳の七本槍』と称されるほどの活躍を見せる根っからの武人。日蓮宗を熱心に信仰する法華経信者で、石田三成のことは 福島正則、加藤嘉明ら七将と襲撃するほどに大嫌い。 とまあ、性格から生まれ育った環境、信仰する宗教に友人関係に至るまでまったく正反対のこの二人。 行長は清正を「戦いしか脳のない筋肉馬鹿のくせに!」と、清正は行長を「口先三寸だけで親父殿(秀吉)に取り入った薬屋風情が!」とお互いがお互いを敵視しまくり。 しかも二人にとっての不幸は、なにかとワンセットにされること。 まず佐々成政が失脚したあと、秀吉は肥後の北半分は清正、南半分は行長にと半国ずつ二人に与えました。 秀吉にしてみれば仲が悪いからこそ互いに競争意識を出すだろうと思ったんでしょうけど、行長と清正にとっては迷惑この上ない話です。 遠い遠い九州の地といえど二十万石以上という領地を与えられ、さあ頑張ろう!と思ったらお隣さんは大っ嫌いな相手。正直、私ならやる気なくします。 でも不思議なことにこの二人、肥後ではめちゃくちゃ近くにお互いの城を建ててるんですよね。清正の 熊本城と行長の宇土城は今なら電車で十分ほどで行けます。こんな近かったら、当時は自分の城から相手の城が見えてたんじゃないでしょうか。顔も見たくないほど仲悪かったなら、いっそ北の端っこと南の端っこに建てればいいのに。 そういえばこの二人、領地の境界線をめぐっても争ってたそうです。 あの当時、そんな明確な境界なんてなかっただろうに…なんとなく小学生が地面に線を引いて「この線からはこっち側は俺の陣地だから入んなよ!」とか言い張ってる光景を思い出します。子どものケンカですか。 そんな感じで領地が隣同士というだけでもお互いピリピリしていたのに、さらに朝鮮出兵では二人一緒に先陣を命じられました。 ここでも秀吉はお互いをライバル視している二人を競わせようとしたんですね。
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さて。前置きがかなーり長くなりましたが、今回は朝鮮出兵でこの二人が先陣を命じられたときのお話です。 秀吉に二人で先陣を行くように言いつけられ、内心では「なんでこんな奴と…俺一人で充分なのに」と思いながらも主の命令には逆らえません。しぶしぶながら、二人とも了承します。 このときに秀吉は清正に南無妙法蓮華経の軍旗、行長に大黒の馬を贈りました。 どうせなにかあげるなら、あとでケンカしないよう同じものをあげればいいのに…と私なんかは思うわけですが。あれだけ仲悪いんだから絶対あとでもめるだろ。 そして案の定、秀吉がいなくなってから清正は軍旗をチラつかせながら行長に言いました。
「小西殿は旗印はどのようにするつもりですか?」
…なんてことのない台詞ですが、この短い問いかけの中にも数々の嫌味が詰まっています。 自分の信仰する日蓮宗の旗を秀吉直々にもらった清正に対して、行長の信じるキリスト教は秀吉からキリシタン禁止令が出されていて、多くのキリシタン大名が棄教させられていました。行長もその一人。 ただし行長は棄教したのは表向きだけで、キリシタンの教えを捨てなかったために領地召し上げとなったキリシタン大名・高山右近や、宣教師たちを自分の領地に匿うなどしています。 そんなふうに表立ってキリシタンとして活動できない行長は、清正のように自分の信仰する宗教を旗印にすることはできません。それをわかった上での旗自慢です。 そしてもうひとつ。行長は元々堺で薬業種を扱う商人の息子。常日頃から行長のことを「薬屋のくせに」と見下していた清正は、「どうせ薬屋は旗印などもっていないだろう」と言いたかったのです。 これ見よがしに法華経の旗を自慢された上に、また薬屋ということを馬鹿にされ、さすがに行長もカッチーンときました。 薬屋薬屋ってうっさいんじゃ!お前の領地に「痔に良く効く薬です」って言って、唐辛子練りこんだもの売りつけんぞゴルァ!くらい思ったかもしれません。(注;清正は痔だったらしいですよ) しかしここで怒っては相手の思う壺。 心の中ではムカつきながらも、それを顔には出さずに行長はこう言い返しました。
「紙の袋に朱の丸をつけて旗としますよ」
これが白い布地に朱の丸だったらただの日の丸ですが、あえて「紙の袋」と言ったところが、清正の嫌味に対する行長のカウンターパンチです。 紙の袋に朱の丸とは、当時の薬袋のこと。 常日頃なにかにつけては「薬屋」と行長の出身を馬鹿にする清正に対し、薬商人出身ということを旗印にあらわすことによって、「俺は薬屋ですけどなにか? 別に本当のこと言われても、こっちは痛くもかゆくもないね」ということを言いたかったんですね。 うーん。表面上は単なる旗印をどうするかってだけの会話なのに、二人の間に火花がバチバチ見えるようです…。
そんな感じで始終不仲だった二人。朝鮮出兵でも行長は和平派、清正は主戦派。関ヶ原の戦いでも行長は三成とともに西軍主力として戦い、清正は東軍として九州で行長の宇土城を攻めていたと最後の最後まで対立していました。 関ヶ原の戦いが東軍勝利に終わったため行長は処刑され、長きに渡った二人の争いも終わりましたが、このとき清正はどんな気持ちだったんでしょうね。案外「嫌な奴がいなくなった!ザマーミロ!」というよりも、生涯の宿敵がいなくなってちょっぴり寂しかったりしたのかなあ。
ところがどっこい歴史というのは面白いもので、現在 熊本にある清正の菩提寺・本妙寺の中にある東光院には、行長のお墓があります。行長のお墓がよりにもよって清正が葬られている菩提寺の中にある理由は話せば長くなりますが、生きている間は一緒に肥後に領地を与えられたり、朝鮮出兵で一緒に先陣を命じられたりしていた行長と清正は死んでからもワンセットなのでした…。 もしかしたら「薬屋がワシの菩提寺に来るんじゃねえ!」「こっちかって来たくて来たわけちゃうわ!」と死んでからもケンカしているのかもしれませんね。
文:ひなた


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